この日記は、ネットワークをうろうろするみなみが、いろいろ思ったことを書き連ねるページです。もともとアタシが作っていた劇団第十四帝國のファンサイト??あなたの知らない第十四帝國より、内容の変更にともないリニューアル公開したものなので、過去ログはその劇団に対する話が多いです。これからも、「趣味」の話として、その劇団の話は登場すると思いますが、あくまで誰が読んでもカマワナイ日記として、公開していくつもりです。




うろうろ日記は終了しました。新しい日記はコチラです。話題がネットワーク限定でなくなってきたので、タイトル変えたくなったのと←タイトル負けするよ!!(笑)、ネットワークと関係ないログを積んでいくのもなんだかなぁと思ったので、とりあえずここはこれで置いておいて、日記を移転することにしました。あんまり深い意味や暗い意図はありません。心配させたらごめんなさいね。

簡単ショートカット はじめました。

3/14。 おしまい。> ショートカット(時間のない人へ)

1. おしまい。

 ここでずっと問い掛けてるのは、自分のこと好き?という些細な質問。あんまり考えたことがないなら、ちょっと考えてみてよね、という話を例を変えてしてるだけ。非難でも批判でもなんでもなくて。
 殴られた方は痛いというのは当たり前の話。これを認識しないと、まず何にも始まらない。でもネットではあまりに軽く痛みは発生する。その痛みを与えるだけのその根拠や自信はなんだろう?
 自分を天才だと思いたいのなら、人に見せないのが一番だから?ましてや不特定多数の人に見せるなんてとんでもないことだから?受け入れられるばかりじゃないのに、どうしてアタシ達は「自分の言葉」を語りたくなってしまうのだろう。
 どうしてアタシはここにいるよ、見つけてよ、と叫びたくなってしまうのだろうねぇ。本当に不思議なこと。
 それと同時に、「黙らせたい」と願う人のその情熱はどこから来るんだろう。ほっといてもかき消されるような小さな声を無理に黙らせるような必要はどこにあるんだろう。
 アタシは黙らせたいとは思わない。
 でも黙らせたいと願う人はいっぱいいるみたいだ。それを口々に批評だというけれど。
 アタシはそれを批評だとは思わない。それだけの話。

 だって目的が全然見えてこないんだもの。何が欲しいんだか分からないんだもの。「より良い作品」のイメージを、作者に伝えて生かしてもらいたい、とか。こんな面白いもの沢山の人に見てもらわなくちゃであるとか、逆に人々がこんなものが全てだと思わないように、ここは見ない方がいいよと教えて道しるべにならなきゃ、でもそれはいい。読む人のための批評ならばそれもアリ。そうやって考えられる可能性をあげていっても、考えても考えても。何がしたいのかアタシには分からなかった。アタシは絶対にそれをやらない。それが違和感。でも外から見たらアタシのやっていることも同じかもしれない。アタシがやっていることは一体なんだろう?

 大体、「悪意」って、鑑賞にも創作にも必要だったものかしら?
 アタシは「悪意」に表現は勝てないと思う。だって、「悪意」は、「作品」に向けられているものではなく、「作者」に向かっているものだから。表現者は「作品」でしか語る言葉をもたないし、作者自身が愛されるために表現を続けている訳ではない。それは、表現と表現を享受する関係ではなく、「人間関係」だから。しかもその「人間関係」も、凄く一方的な思い込みや知ってるつもりから出来ている。フィクションとノンフィクションの区別も曖昧なのに。自分が「どちらの方向」を向いているのか、それすらも分からないのに。自分が悪意を読み取ろう、読み取ろうとしてるかもしれない。傷つこう、傷つこうとしているかもしれないのに。
 マナーの話なんかは、発想の転換の単なる例の一つでしかない。こういう考え方もあるけど、どう?というアンチテーゼの一つに過ぎない。そんなことが言いたいんじゃなくて、あくまで、「あなた、今どこに立ってる?」という質問をしてるんだけどな。そうして、「あなたはどこに立って、何を見て、何をしてる?そんな自分のこと好き?」という、繰り返し同じ質問。

 表現者が人格者であれ、というのはアタシは理想だと思う。「人間関係」や「性格矯正」を期待されてもちょっと困る。
 アタシは、人間関係になっちゃった人を「読み手」とは定義しない。で、ウェブ日記の場合はどーしても作品というより、人になっちゃう部分があるから、人間関係になっちゃうのもある程度仕方ないとも思う。
 好きな人の話を素直に聞けるのは当たり前だし、嫌いな人の話を素直に聞けないのも人間だ。でも「表現(作品)」はそれのみで語るものである訳だ。
 アタシは自分がネット上に書いている文章は「作品」として読んでもらいたいから、「批評」するというのなら「作品」として読むべきだと考えるから、「作品」としての見方の「発想の転換のキッカケ」を並べる。人間として読みたいという人は、それでもいい。ウェブ日記は生活日常の話じゃなきゃ駄目だとか、ウェブのテキストはとにかく軽くなくては駄目だ、とか。そういう美学はそれぞれが持って、それぞれに訴えていけばいいと思う。で、自分が書き手になった時、実行していけばいい訳ですから。
 あなたが「人」を見ようとすれば、もちろんそこには「人」が見えてくるでしょう。 いーかげんでてきとーで矛盾に満ち不完全でだらしないそんな人間が見えてくるでしょう。許せない部分もあり、注意したくもなるでしょう。「人」として。
 アタシは、アタシに「人」を求めてくる人に対しては、「読み手」ではなく「人」として見ますよ。「人として批判」されれば「人としてお答え」します。その時、作品をアップしているのだから、批評されるのは当たり前なんていう言葉を使うのは、不適当だとアタシは思うし、その上アタシは「人間関係」を少なくともこのページでは求めていません。お友達を探している訳ではないので、お友達としての親切を、アタシに、「ネットワーカーのグローバルスタンダード」とかいう言葉で、親切を強要しないでください。
 表現者として言うのなら、アタシは自分が作りたいものを一番良いカタチで作ることだけを考えるのが仕事だし、それ以外はアタシの関知することではありません。アタシはここから出ることはないし、ここでしか責任を取りたくない。アタシのプライベートも、アタシが他のページで書いている内容も、アタシの趣味も、アタシの社会的地位も学歴も何の関係もありません。切り離してみてください。
 と言っても無理がある訳ですが。(笑)でも本当に完全に「表現」を語るなら、それくらい切り離しても傲慢にはならないはずだけど、たかが素人の無料の日記書きが、読者のメールに返事しないなんて傲慢だ、とか掲示板に返事しないのは傲慢だとか、「人」として言ってしまうでしょう?
 そして、人が人として誰かに何かを言おうとするのなら、それなりに矛盾や醜さを許す寛容さが重要よ。表現は「完璧なモノ」を夢みてもいいけど、人に完璧を求めるのは無理な話だからね。個人の価値観を変えることは、他人の仕事ではないし、表現者の仕事ではない。表現は選ばれるもので、価値観を変えるのはどんな時でも自分の選択だ。
 まぁどんなことを訴えても結局は、読んだ人が考えて、自分自身感じた自分の言葉には絶対に勝てやしない。そんなアキラメは不幸だといわれようが、アタシができる表現なんかはそんなものよ。アタシは運と縁を信じるタイプだし。外に向かって理想や美学をもつタイプではない。理想と美学は自分のみに発動。だから、アタシはアタシの力しか分からない。読み手の力に理想をもつより先に、自分がまず理想の自分になる方が先だ。
 で、ウェブは人と作品を切り離すのは勿論無理だと思う。人として書いている人には人として接するのが人間関係を円滑に保つコツだし、作品として書いている人には、作品として距離をおいた方が話はスムーズに通じるだろう。どちらにしても向こう側に人がいるのは同じなんだから、本当に会話がしたいのならば、相手が受け取れる言葉を選ぶべきだろう。←会話が目的じゃない人もいるけどにゃ。(笑)そういう人は、自分が会話を求めてないことを自覚すべきよ。
 じゃあどーしたらいーんだよって、「自分の好きな自分」でいてくださいよ、ということです。よりよい表現者でも、よりよい読み手でも、よりよいネットワーカーでも、よりよい日記書きでも、自分で明確に良いイメージを持って、理想をもって、自分の感性を信じて読むなり、書くなり、批評するなり、問題提議するなりして下さい。
 アタシはアタシの答えしか出せないし、それはあなたが自分を明確に感じるための「違和」でしかないので、アタシにガッカリしたらそれが考えるチャンスです。
 アタシがどーしよーもなく、矛盾した世界と矛盾した人間を愛していて、無意味に痛む人を見ると哀しくなるというのは、あくまでアタシの話です。アタシは哀しいから哀しいというし、アタシがその痛みを忘れないように未来の自分と、大事な友達に向かって問いかけるのだし、それが自己満足だとわかっているから、絶対にここから外には出ていかないのです。掲示板やメールではあまりフォローしない。それがアタシなりのキマジメさ。でも理解されないけどにゃ。(笑)
 自分の頭で考えてください。答えは多分、そこにしかありません。

 ネットをはじめたばかりの人が、一番最初にネット特有の悪意ある言葉に触れた時は、絶対に驚いたはずだと思います。間違ってるとかひどいとか、自分はやりたくないとか、その時考えたかもしれません。
 HPをつくり初めて、一番最初にキツイ感想メールをもらった時は、誰もが動揺したと思います。なんで好きで作ってるのにこんなこと言われるの?とか、文句があるなら見ないでよ、とか考えたと思います。それも長く続けていれば確かに慣れていきます。そして、いつしか言う側になり、悪意ある言葉を誰かに使う側になっているかもしれません。
 こんなことはたいしたことじゃないから。ネットだから実生活に支障を来たす訳じゃないから。作品を出した以上、批判されるのは当たり前だから。ここはそういうことを言う場所だから。ネットとはそういうものだから。人間とはそういうものだから。

 アタシも、明日にはそういう台詞を使って、自分の掌を傷めずに誰かを殴っているかもしれません。覚悟だとか批評だとか、そういうカテゴライズに押し込んで、考えることを放棄して。嫌いな人が多いことを、自慢しているかもしれません。

 今のアタシは、嫌いな人の話は素直に聞けないことが分かっているから、それって凄く勿体ないことだと思うから、誰のことも嫌いになりたくないと思う。今のアタシは本当にまだまだで、もっといっぱい人の話を聞いたり、いろんなものを見たり、読んだりしなくちゃいけないんだから。

 アタシがモノをつくり続けていくつもりなら、沢山守らなくちゃいけないものがあるよ。
 ちゃんと守れてる?それだけが心配だわ。






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3/13。 ゲージツ。> ショートカット(時間のない人へ)

1. 日記。

 寒い。冬逆戻り?



2. ゲージツ系な考え方。

 教育実習に中学に行った時に、何でもいいから好きな画材をたくさん用意して、「音楽」をかけるから、それを聞いたイメージを好きなように描きなさい、という授業を研究授業で行った。何でもいいよ、と言っているのに。折り紙をちぎってはっても、絵の具でもクレヨンでも色鉛筆でも、なんでもいいよといっているのに、「これでもいい?」と確認しにくる子がいっぱいいたし、作品を作りながらも何が不安なのかオドオドしていた子がいっぱいいた。アタシはとにかくにこにこ誉めまくって、同じ音楽を聴いて、皆こんなに違う絵が描けるんだから、面白いよねぇと繰り返した。最初はオドオドしていた子達も、慣れてくるとイキイキし始める。丁寧じゃなくても、見本とおりじゃなくても、隣の子と同じ絵を描かなくても、同じ画材を使わなくても、好きなように自信を持って、自分が選んだ方法で描いていけば良いんだよ。歌詞のある歌から、言葉のわからない外国の歌。歌詞のない曲。好きなように感じればいいから。絵を描かせた後に、歌詞の意味や、曲のタイトルを発表して、自分が感じたイメージと、作った人が込めた思いの違いを考えさせたりした。違っていることがいけないんじゃなくて、それが素晴らしいことなのだと教えたかった。
 この授業は、アタシが美術の学校に入って一番最初に受けた授業だ。大学に入るための、マニュアル通りの絵を二年間描きつづけてきたアタシには一つのカルチャーショックだった。何かが壊れて、また生まれた瞬間だった。そうしてあそこから全ては始まったのだなぁと思う。
 自分のやりかたを選ぶということ、自分の感性を信じるということ、そして自分が自分の感性で感じ、考えることと同じように、誰かに見られるということ、評価される(感じられる)ということ。
 アタシは教える側には回らなかったけれど、芸術から自分が教わったことはなんだろうと考える。
 答えが一つではないことが、素晴らしいことという考え方は、多分、ゲージツでも特に何でもありの総合芸術特有の考え方かもしれないけど。まぁアタシの専門は商業が絡むデザインでもなく、とにかく美とそのための技術を追求するタイプの美術でもなかったので、かなり偏っていることは自覚した上で言えば、ゲージツ家の仕事は自分の答えを押し付けることではなく、見た人に何か考えさせること、頭を使わせることなんじゃないか、と思う。
 そういう意味で、ゲージツはサービス業ではない、だから親切とはいえない。先生でもない。
 とりあえず振りむかせることがまず最初で、何かを感じさせたら考えさせたらメッケモノという感じ。ちんどん屋でストリッパーなオオカミ少年。こっちの好きで踊ってるのだから、できるだけおこがましくはありたくない。笑ってくれれば嬉しいし、何かを教わったといわれれば、それは何かの偶然の間違いかもしれないけれど、とても光栄なこと。うるさいぞ、と怒られれば申し訳なく思う。が、好きでやっているのでヤメラレナイ。そんな感じ。
 大抵のことは面白がってかわせるタフさと、落ちる前に行動を始めるアクティヴで妙に楽天的なトコロとか。
 やりたいことをやることが目的で、あんまり後のことを考えないあたりとか。結果が悪くても次があるさな所とか。
 狙ってものが作れない所とか、こう思ってほしいとかこう感じて欲しいとか、わかってほしいとか、自分を好きになってほしいとか、理解してほしいという欲求が全くないアタリとか←これは作品と自分を切り離している、ということだけど。
 作品でしか語る言葉を持たないから、メールでのやりとりが苦手だったり←ここで書く以上に説明する言葉なんかアタシは持たないので、日記通して友達作ろうとか考えないアタリとか、他人の評価とか投票とか、どーでもよかったりするアタリとか。
 アタシがどーしたってゲージツ系(総合芸術より。デザインの人や美術の人はまったく異なるだろうし、芸術と呼ぶのもおこがましい感じなのでやや自嘲気味にゲージツ)な部分なのかしらん?と思う。

 ゲージツ系思考は、楽観的に生きるにはなかなか便利な思考だと思う。(笑) たまにするといーかもしれない。その程度。


2. と、自分自身に問い掛ける。。


 いつの時代も、表現者の目の前に広がるのは、底のないプール。そこでは誰もが支えもなく、自分の力で泳がなくてはいけない。そこにつま先もひたす勇気のない奴らばかりが、みっともなく騒ぎ立てる、とは本当によく言ったもの。おぼれるものが藁をもつかむみたいにね。
 確かにもがく姿や、空気を求めてゆがむ顔を誰かに見られたりするのはみっともないことなのかもしれないわ。それでも自分の力で泳ごうとする人に、誰かを踏みつけて少しでも上がろうと、空気を求めようとする人間は絶対に勝てないのよ。
 その尊さの前では、「泳ぎ方」も「息継ぎの回数」も「進もうとする方向」も、外野からいくらケチをつけても、もっと賢い方法とやらをウンチク垂れた所で、絶対に貶められたりはしないんだからね。若い子達はアタシよりずっとマシだよ。少なくとも自分の力で泳ぎ続けているものね。泳ぎつづけた過去があるから?稼いだ距離があるから? 随分彼らより前にいるつもりかもしれないけれど。この底のないプールは波も強いので、とっくにフリダシに戻されてるよ。泳ぐのを辞めてしまったら、それまでだよ。

 飛び込む勇気はある?、と自分自身に問い掛ける。その繰り返し。
 永遠に繰り返すんだと思う。

4. 逆リンク。

 Inner Space@adramineさんの3/13日
 スタイルシートは要望とおりに採用したものなので、実はシステムが分かってなかったりします。(笑)←駄目駄目ね〜。 しかしなにを大事に思うか、非常に分かりやすいご意見で面白いです。興味深い。 デザイン>>>機能性、という人もいれば、機能性>>>内容という人もいれば、内容>>>デザインという人もいて、絶対JAVAは駄目とか、フラッシュは駄目とか、画像切って見れるページじゃなきゃ駄目とか、色は256(厳密には216色?)じゃなきゃ駄目とか、顔文字不可とか、センタリング嫌だ、とか。人によってこだわりや、良いHPの基準が異なって面白いです。アタシは基本的に持ち主の性格が見えるので、シンプルでも重くても商売じゃないんだから、好きにやればいいかな、と考えている甘い人です。ページ見ればわかるけど。(笑)
 基本的に要望があればやるよ、という姿勢がアタシの誠意です。そうしてスタイルシートもリンク集代わりのさるさる版ショートカットも、段落ごとにタイトルつけるのも要望があったので導入してきました。できないことはできないけれど、できることはやります。アタシは一台目のパソコンはマックだったし、マックが嫌いな訳ではないけれど、今、現在の所、マックと相性の悪いソースを書き出すウインドウズのHTML作成ツールもあるし、マックとウインドウズの両方を所有している人は少数派ですから、そこまで当然のように要求できるもの、とはアタシは考えないかなぁ。言い出すとキリがないから。
 ちなみにこのページは、重いわ、トップページがないわ、リンクは切れ切れだわのとんでもないページですな。ノリとしてはマニアックな映画ばかりやる汚い映画館でサービス悪いが入場料は高くてマニア向け、といった感じでしょうか。(笑)もしくは招かれていったら、汚い生活感溢れる部屋。 デザイン凝ったページは他においてあるけど、ここではやんない。そういうのはもういっぱい作ったしね。
 ここに置いてあるのは、どーしよーもない矛盾といいかげんさと弱さと痛みと体温をもち、いつもカッコよくはいられない人間の「情報」の「情」の部分だけで、しょーもなさの向こうにアタシという幻の「体温」が感じてもらえるか、うーん。「人として許せるか」とかだけが重要だから。ま、こんなもんよ、という感じ。
 見る人を選ぶタイプの、凄く好き嫌いの別れる、分かる人には分かるけど、分かんない人には全然分かんないヘンなページをここでは作ろうと思ってたんだけど、実際に本当にそのとーりにできてしまって、面白い感じだ。別にアタシの書くものがいつもこんな、という訳では全然なくてよ。(笑)これはこういうセルフプロデュースで書かれているものだからね。まぁ最初から好かれたいなら、お友達作りたいならこんなペエジは作んない訳ですが。(笑)
 というか、文章が長い、下手、機能性が凄く悪い、ソースぐちゃぐちゃ、重い、トップページと自己紹介がない、読む人のことを考えない、メールの返事もしない←できない…んだけどね。高飛車な訳じゃないんだけど、メール苦手なのもあるけど、メールで責任取れる文章書くのがむずかしくて、そしてできないことはやらない(笑)、そんなテキストサイトの悪い見本のようなページなのに、それでも見に来てくれるお客さんが十分過ぎるほどいるんだから、凄い実験してるよね、我ながら。なんていうか、大成功か。(笑)
 アタシは所詮、サービス精神の全くない、自分のやりたいことしかやらない、人目も気にしない厄介なタイプの人間だからなぁ。で、美学は自分のみに発動。


 Mew's Diaryさんの3月13日。

 (引用)

 藝術家が「そんなこと言うならおまえ(=批評家)が作ってみろ」と言えばそれは自分の負けを認めたことになり、批評家が「これは自分の好みじゃないから良くない」というのは自分の無能さをさらけ出すことになる。

 (引用終わり)

 と同じ話を、アタシも大学の授業で教わりました。だから、アタシは自分のやり方は変えないかわりに、じゃあ書いてみろとか、作ってみろというのは絶対言わないようにしています。カッコワルイから。←そう教わったからかなぁ。そのアタリで、アタシの中で作る側と批評する側は対等。

 アタシは頭が悪いので理論じゃなくて、体感でしか分からない部分があって、イマイチどうも人とアタシの「分かる」の意味や「共感」の意味は違うらしい…と最近考えていました。
 アタシは答えを一つにすることは全く興味をもてないし、絶対にこう伝わってほしいとか、こう思って欲しいという情熱がもてないこととか、自分の意見を支持されることは、鵜呑みにされてるようでとても怖くて、そんなことよりも自分の頭で感じて考えて選んで欲しいと願ってしまうこととか、そういう自分の価値観はどうやらとてもマイノリティみたいだけど、どこから来てるのかなぁ?と考えてたんですが、やっぱりモノを作っていたからなのかなぁ。
 すごーく適当なペースになると思いますが、続けれたら続けようと思っています。っていうか、更新ペースが適当になったら、あめぞう2000は外してもらった方がいいのかなぁ? せっかくあめぞう2000に参加させて頂いたばかりで、閉鎖するのも悪いかしら?と、頑張って更新続けてたんですけどね、最近。(笑)←気にしい。
 日記自体は他の方法で続けようと考えているんだけど、まだ考え中。そっちをあめぞう2000に入れてもらおうかなぁ。大体うろうろ日記は長くて迷惑。(笑)


 BowaBiwa Notesさんの、3/11日。

 BowaBiwa Notesさん、「消費者」の意味の取り方が違うよー。アタシが「消費者」と形容するタイプの人は、読み手全般という意味じゃない。
 表現は、基本的に消費されてなくなっちゃったりしない。読み手にちゃんと受け取る能力、鑑賞する力があれば、ちゃんと受け取る人が消化してカタチが変わっちゃったとしても残る。読んでも、見ても。自分の中に何にも残せない、何にも生み出せない、ただ口をあけてより強い刺激を待っているだけの人のこと、全く想像力をなくしてしまった人のことを「消費者」と言ったのよ。
 例えば最近だと、掲示板に悪意ある言葉を書き込んで、削除するのを言論の自由の侵害だとか、本当のことを書かれて、慌てて、取り繕ってみっともないと言う人がいる。
 でも実際のところ、個人ページが他のお客さんも沢山いるレストランならば、あまりに大きな声で騒ぐ人がいれば、他のお客さんのために静かにしてください、と店主は注意するだろう。他のお客さんが嫌な思いをしないためにも、店内を汚されたら掃除するだろう。あんまりに迷惑だったら、入店をお断りするだろう。お風呂屋さんだって、背中に刺青のある人や、生理中の女性はご遠慮くださいね、という権利がある。
 しつこく嫌がらせをされたら、店を閉めてしまうだろう。まずいからと、床に料理を叩きつけたら、割ったお皿や汚したじゅうたんのクリーニング代を請求されるだろう。
 美術館でも図書館でも、ウルサイお客さんは注意されるし、触れてはいけない作品に触れたら注意されるだろう。表現を享受する、権利を剥奪されるだろう。
 表現を消費していく文化というのは、アタシは顔が見えないネット特有のものだと考えています。現実とどんどん離れていくこと。ネットだからという常識が新しくできていくことに対しては、アタシは懐疑的だし、ネット特有の消費行動が、表現を育てるとは考えないし、批評とは呼びたくない、ということです。
 義務を果たさずに、権利だけを声高に主張し、表現から何かを得ることを求めずに、より強い刺激だけを求め、何も残さず、好き嫌いのみで批判する。そうして表現を自分の中でも外でも育てずにただ食いつぶしていくことを、アタシは消費と言ったのですよ。

 Coconuts Cookie Sakuraさん リンクに加えてくださってありがとうございます。カテゴリは「読み物」みたいです。

 別日記はじめました。くだんないです。

今日の反省。 いつか芸術とはなんぞや、と言い切れるようになりたいものね。





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3/10。 潮時。> ショートカット(時間のない人へ)

1. 日記。

 歯医者に行っただけで、一日寝て過ごす。久しぶりに何にもない休み。


2. 日記読み日記。

 D-Point  2001/03/10

 日記読み日記に取りあげていただいてありがとうございます。自分が書いていることが、どのように読まれているか、というのは興味深いことです。
 あのー、アタシが書いているのは、インターネットの話題なので、グルメというのは、インターネットの文章に対してグルメぶる人のことであって、現実のグルメの方々の話をしている訳じゃないのですが…。
 ついでに、最近のここのテーマは、「インターネットですっかり記号になってしまっていて、使う側はさして意味もなく使っているが、使われた側にはとても攻撃力のある厄介なよく見かける単語」を続けてテーマにしていて、「宗教みたい」「偽善」「痛い」「ウザイ」などに並んで、昨日は「嘘・騙された」という言葉はよく見かけるけど、実際の所インターネットのどこに真実があるのだろう?、「自作自演」という単語を多用する人達は、本気に自作自演していると思っているのだろうか?、作品を作っているのだから、「批評」されるのは当たり前だというけれど、インターネットではどうして床に叩きつけられて踏みつけられることまでも「批評」と呼ぶのだろう? ちょっと使う前に意味について考えてみないと、言葉は「自分の言葉」ではなくなっていくし、言葉は脆くて不確かで、凶器にもなるものなのだから一度考えてみた方がいーんじゃないかしら、ということを最近続けて書いているのですが、どうしてアタシが自作自演という言葉を使う人に対してのみ「怒っている」ことになるのか、匿名掲示板を罵倒だとか、謝罪だとかいう言葉になるのかわかりません。本当に面白い読み方だなぁ。読み方を読み手が自在に選べるように、文章を書いているつもりなので別に良いんですが。面白いなぁ。そういう読み方がマジョリティなのだとしたら、やはりもうちょっと親切に書いた方がいいのかもしれません。
 というか、「感情論(怒っているとか、頭にきてるとか)」だという言葉は、よく見かけるけれど。怒ってないのに、怒ってると言われることがネットやってると多いですが、そういう時どう対処すべきでしょうかね? 怒ってませんよ、と言っても信じてくれないしねぇ…。怒ってることにすると、分かりにくいことが分かりやすいことにでもなるのかしらん?不思議だ。

 やっぱり、「モニターの向こうから流れだしてくる無料の情報は、とくに短絡的に行われ、長い時間をかけたものは嫌がられ、答えのないものは理解されない。」んだなぁ。
 よく、アタシは何が言いたいんだ、といわれますが。アタシは何にも言いたいことなんかありません。アタシがなにか言いたい、答えを出すんじゃなくて、読んだ人に考えてもらいたい、それぞれにそれぞれの答えを出させるために書かれている文章だということにそろそろ気付いてもらいたいものだなぁ。何年後かの自分が読み直した時に、同じように自分が問い掛けられることでしょう。
 ここで設定されているアタシという人格は、田口ランディの言葉でいうと、読んだ人が、明確に「自分」というものを感じる、確認するための「違和」の存在でしかないんですけどね。
 舞台もパフォーマンスもインスタレーションもそんなに親切じゃなく、観客に考えさせるきっかけを与えるイメージに過ぎずそれがメッセージで、見た人が自分流の答えを出していくものなのですが、そんなに皆さん考えること嫌いですかねぇ、手とり足取り親切に1+1が2という答えを出されないと納得できないものですかねぇ。それがもう不思議なんだけど。共感が得たいんじゃなくて「違和」が得たいんだけどなぁ。いやまぁそれは十分すぎるほど成功してるんだけども。(笑) 分からないということを分かってもらいたいなぁ。
 アタシは言葉を使った表現というのは連想ゲームみたいなもので、じょじょに変わって伝わっていく、水に投げ込んだ石の波紋が、おかしな形で広がっていくことを楽しむようなものだと思っているし、他人の意見というものは自分というものがリアルになる「違和」の存在として並べられるものだと考えているのですが、だから沢山の人の意見を聞くことはとてもためになることだなぁと。 でもそういう考え方って、あんまり「普通」じゃないのかなぁ。なんですぐ他人に答えを出してもらおうとするのかが分からない。逆にアタシが答えなんか出したら、おこがましいじゃんと思うんだけどなぁ。それって、ゲージツ系のみ有効なモノの考え方なのかしらん? アートな表現はそこまでメッセージを限定することはまずなく、見る人をなんやらわからんものでインスパイア(思想とか感情を吹き込むこと、という意味だけど、この場合は感情を吹き込むこと)させる程度で、たかがその程度、されどその程度のものに過ぎなくて、作者が自分を理解してもらいたいとか、そんなおこがましいことはまず考えないので、文系・理系の表現とはどうもカッテが違うのかなぁ? 分かりやすい表現が素晴らしいのなら、パフォーマンスとかインスタレーションとか抽象画ってなんであるのかしらねぇ? 絵画が写真を越えられなくなってしまいそうなのだが。 ああ、アート弱い!!弱すぎる!! 自分のやり方をかたくなに守ったり、自分の感性を信じたり、時間の効率や、コストパフォーマンスに逆らうアートな感覚というのは、時代錯誤なのかもしれないなぁ…。時間かかんない、お金かかんないのが素晴らしいなら、誰も岩絵の具なんか使わなくなるし、分かりやすいのが一番なら誰も抽象の表現を選ばなくなるね。ところで、アタシにとって言葉って、絵の具と同列の表現するための素材なのだけど、すでにその感覚から人と違ってるのかもしれないわ。(笑)人は数字のように言葉を使ってるのかもしれないなぁ。だからアタシの書くことは、「計算しても答えがあわない」のかもしれないわね。
 どーでもいーけどアタシ、テレビほとんど見て育ってないから、今の効率とか、グローバルスタンダードとかいう考え方ができないのかなぁ?(アタシの家は、食事時にテレビを見るな、食事が済んだら自室で本を読め、それ以外の時もテレビはずっとNHKという家だったので、子供の頃からテレビを見て育ってないので、テレビから流れる無料の情報とやらと縁がないのです。アラレちゃんとか、ガンダムとか、どらえもんもトレンディードラマも全然見てません。今もほとんどテレビを見ません。人が人生でテレビを見る時間の1/100も見てないと思います。テレビは時計とゲーム・ビデオのモニタとして使われています。東京来て一年以上、テレビない生活してたくらいだし。(笑)
 だから、「イマドキの普通」という感覚が上手くつかめないのかなぁ?今週一週間で見たテレビ番組は、知り合いが映るかもしれないから、見てといわれた誰でもピカソだけだもんなー。結局映らなかったが。(笑)来週?
 と、2001人芝居を見た時に思ったこと。あー、アタシ、「ケッコンシタイ」の洗礼も受けてないから、結婚したくないのかしらん?(笑)余談。


 星の王子様のぞうを呑みこんだうわばみの絵を見せられて、「帽子」だといおうが、「そんなのは無駄だ」といおうが、「分からない」と言おうが「馬鹿にしている」と怒り出そうが、「絵が下手だ。分かりにくい」と言おうが、アタシの答えではないのでなんでもいいのですけどね。それがあなたの答えなのだから。アタシは分かりにくいと言われる世界の絵を言葉で描き続けるだけでしょう。世界の形を探るために。


 といっても、そろそろオンラインの発言はもういいかなぁと思ってるんですけどねー。オフラインに移行させようと思ってます。まぁ忙しくなるし、文章のみの表現方法にとくにこだわっている訳ではないのですが。やりたいことがあるんで、ここの更新はもっと滞りがちになりそうです。やりたいことってなんですか? いや、同人に行こうかと思ってて。←本気。 コミケで売るような奴ももう一度やってみたいけど、本当の同人をやってみたいなー。これは、やっている人とお話ししたりしたいという意味。人の姿が見たいんだろうなぁ。ネットだと向こう側に顔が見えないから。と、自主制作の本を扱う本屋に行った時考えたんだけどね。
 あと、なんかアタシ、言葉に不自由な感じなんで、文章書く教室とか行こうかなぁ?と考えてます。添削とか受けてみると、また勉強になるのかもしんないな、と思って。誰かに決められたテーマで、文章書くのとか面白そうだから。いや、文章で食って行こうとかは全然考えてないんで、本当に何か勉強になるなら、やってみてもいいかな、という感じです。オフラインだね。なんていうか、不特定多数にみせることで学べることは、勿論あるのだけど。ヘンなタフさと覚悟と固さが身につきすぎたような気がして、最近嫌だなぁと思うことが多い。
 今月のヤングユーのベル・エポックでも、「作家は壊れ物、だから気をつけて扱ってね」という言葉が出てきたけれど。モノを作る上でそういう臆病さって絶対大切だよなぁと思うけど、自分がネットを続けてなくし続けてるものだよなぁと思って。
 そう思うともう潮時だなぁと本当に思う。アタシ自身、言葉を記号として使い始めているような気がする。だから、戒めで最近のテーマは書いているんだけどね。自分の言葉を失うな、と。自戒をこめて。
 オンラインでは、もっと本の感想と舞台の感想を書いたりしたいなぁ。実用もあるけど、最近「批評」というものを学びたいものだと思って。あとメールの返事ができるようにしたいね。(笑) それも学校次第だけど。学校は、絵の学校でもあるけど、文芸コースもあるみたいなので、そういう出会いがあったら楽しみだなぁと期待してもいるのだ。本当に時間があったら、絶対に舞台を手伝うボランティアとかしにいっちゃってると思う。ああもうやりたいことがいっぱいあって困るよう。でも仕事も結構面白いし、生活もしなくちゃいけないから本当に困る。(笑)
 アタシに本当に文才があるのならば、多分アタシは舞台の脚本が書きたいんだろうなぁとよく思う。アタシは今のところ人生に後悔することはないんだけど、一つだけやりなおせるならやり直したいなぁと思うのは、今までなんども演劇に関わる選択肢はあったのに、全て回避してしまったことだけです。ああやっぱり一度やっとくんだったなぁ…。で、今は見る側なのね。すごーく近くにいたのに、どうしてあちら側にはいけなかったのかなぁ…。ああ、あと三才若かったら迷ったりしないのになぁ。←嫌な弱気だよ、みなみさん。

 とりあえず今のアタシは、とにかく実際に人に会いたいんだと思う。そういう勉強がしたいんだろう。今は井戸の中だわ、と思う。それが分かってるなら、出なくちゃね。


今日の反省。 久しぶりの何もない休みを寝て過ごす。





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3/9。 批評と表現についてのいくつか。> ショートカット(時間のない人へ)

1. 日記。

 花粉到来でちょーしわりーっす。THE CONVOYのチケットを取った。四月の観劇は、ナイロン100℃と、THE CONVOYと、InnocentSphereに決定。 あー、コンボイって劇とは言わないかもしんないけどなー。ああそれいうと帝國だって演劇じゃなーい!!(笑)



2. 批評について。

 アタシは基本的に、インターネットはなりたい自分になれる場所なんだろうと思っているので、基本的に自己申告を信じるようにしている。ノンフィクションだと言うのなら、そうなんだろうし、フィクションだというのならそうなんだろう。疑いだしたらキリがないし、証拠も根拠もどこにもないからといって、間違っているということにはならない。手品に対して絶対トリックがある!!とか、トリックに騙されないように!!と、ギャーギャー騒ぐのも無粋だと思う。手品やイリュージョンを楽しむコツは、上手に騙されることだと思う。インターネットのように、全ての情報が自己申告のイリュージョンの世界で、騙されたとか、嘘つかれたとか、欺かれたとか言い出したらキリがないし、疲れてしまう。大体どこに真実があるというのだ。名前だって偽名なのに。その中で、年をごまかそうが性別をごまかそうが、本当のことを書こうが、嘘を書こうがたいしたことではないし、どんだけ真実を書こうと、信じない人は信じないし、どんな嘘でも信じる人がいればそれが真実になる。そういう世界だ。
 インターネットは本当に夢のような世界で、アタシはどうせ夢を見るのなら楽しい夢が見たいもんだぜ、と思う。だからアタシは、自己申告を全て信じるようにしている。それで騙されても損したとかは考えない。キリがないし疲れるから。後味が悪いだけだし、疑心暗鬼になって、全てを疑ってかかったところで、真実が見えてくる訳じゃないから。アタシが信じたものが真実だ。アタシはそれを選ぶ。
 だから、2ちゃんねるみたいな匿名掲示板に書き込む人達は、名無しさんという個人を自己申告してるのだから、その人が他所でどの名前を名乗っていようがアタシには関係ないし興味もない。そのスレッドにたった一人の人しか書き込む人がいなかったとしても、一番の名無しさんと、二番の名無しさんは、別の人だというんだから別の人なんだろう。別の人になりたいというのなら、それを信じるしかないし、それで騙されても別にアタシはカマワナイ。誰が書いていても。何人の人が書いていたとしても。悪意ある言葉は人を傷つけるということだけには変わりなく、どこかの誰かが書いたという事実が変わるわけではない。書き込む人がいなければ、どんな言葉もそこに書き込まれることはない。重要なのは、その書き込んだ誰かはどこかに必ずいるということだけだ。
 だから、匿名の掲示板で必ず出てくる、自作自演という言葉は、アタシはなんだかなぁと思う。一体何のための匿名なんだろうか。まぁ嘘を嘘と見抜く力がなければ、匿名掲示板はムズカシイというのはひろゆきさんの言葉だけども、アタシには嘘を嘘と見抜く力はないし、大体嘘と断定する材料もアタシは持ち合わせてはいないので、判別できる立場にはいない。大体インターネットのどこに「真実」があるというんだ。騙された所で、別にアタシは痛くも痒くもなければ損もしない。そしてインターネットの無料の無数の情報の中で、一体どこで誰が得するというんだろう。インターネットの嘘も真実も、自分の気の済む方法で、納得させているだけの話だと思う。
 損得を考え出すとどうしても人は貧乏臭くなるし、アタシは品性くらい貧乏くさくありたくないものだぜ、と常々思っているので、上手に騙される余裕くらい持たなくちゃな、と思う。可能性の数だけ真実があるのなら、真実も自分で選ぶしかない。こんな世界で、真実が一つだとか言い出すなんて、それは飛んだドリームだなぁとアタシは思う。
 皆がなりたい自分になればいいと思う。インターネットはそれができる世界なんだから。

 しかし、自作自演と言い出す人は限りなくいるけど、どれだけの人が本気で自作自演だと思っているのだろう? 悪意のこもった言葉でのフィードバックを、ココロヨク望む人は、「そういう性癖」の人だけだろう。大体今の2ちゃんねるにリンク張られたところで、たいしたアクセスアップにもならないよ。よっぽどそこそこ大きなサイトに、文中リンクしてもらった方がアクセスアップになるよ、本当に。アクセスアップを本当に望むならば、日記読み日記を書いて大きなところに文中リンクをしまくって、日記才人の日記読みカテゴリで毎回更新報告するとか、あめぞう2000に参加するとかした方が早いでしょう。でも誰もそれをやらない。 ちなみにアタシが本当に沢山の人に読んでもらいたいというのなら、絶対メルマガ発行した方が早い。(笑)どんだけ人が集まる日でも、メールマガジンの半分も人は見に来ないんだからさ。今なんか下手すると1/10も見に来ない日もあるし。(笑)
 自作自演、自作自演と言われながら、沢山のサイトが閉鎖していった。勿論自作自演がゼロではないことは知っているけれど、自作自演が全てではないことも知っている。そしてもう、偽善や痛いやウザイという言葉と同じで、とっくに意味なんかなくなった、ウノというゲームでいう所の「リバース」のカードのような用途で使われるゲームの手札の一つでしかないことも知っている。
 はっきりいって聞き飽きた。意味のない記号に過ぎない言葉に全て。人がすでに集まっているものに対して、「なんであんなつまんないものに人が集まるんだ!!見る目がない!!」と一人叫ぶことが高尚な批評だとか見る目があることとやらになってしまった。
 批評が完璧なものを夢見て行われるのならば、これほど力強いものはないのだろうけれど。面白いものを面白いよ、と誰かに伝えるためでもなくなり、表現者にここを直せばプラスになるよ、と教えるものでもなくなり、つまんないから見に行かない方がいいよ、と誰かに教えるものですらなくなった。そんな中で損得を語るのは非常に馬鹿げていると思う。それは批評ではなく、批判でもなく、批評を模倣したゲームだ。手札は限られているので同じ言葉しか出てこない。それが素人批評が馬鹿にされる理由だと思う。
 ついでにアタシは、自分がつまんないと思うものが、人に支持されていてもむかつかないし、なんとも思わない。人に支持されるということは、何かしら絶対に人を引き付ける何かがあるハズだし、それを自分が見つけられないからといって、頭から否定してしまって良いものではない。そんなことは批評とも批判とも言わないし、見る目があるとも言わない。大体、なんで自分の良いと思うものが人々に選ばれなかったり、自分にとってつまんないものが人々に選ばれることが、なんでそんなに我慢できないことなんだろう。凄く不思議だ。
 気持ちよく騙されるくらいの覚悟がないなら、インターネットを楽しむことはできないだろうな、とよく思う。手品にしろ、イリュージョンにしろ、トリックを探そうと目を皿のようにして、手の動きばかり見ていても、本当の意味でその世界の美しさを楽しむことはできないと思う。人々が本当に素晴らしかったね、美しかったね、見に来て良かったねと喜ぶ中で、あのトリックはこうなんだ!!インチキなんだ!!騙されてるんだ!!損してるんだ!!こんな嘘も見破れないのか?と大声を出して叫んでも、得意がって見せても、ただ単に無粋なだけだ。舞台を見つめる限られた時間、舞台を見るための労力、お金の使い方として、果たしてその世界の嘘を楽しんだ人が損をして、その世界の嘘を見抜いて腹を立てた人が得をしたと言えるだろうか?大体、手はどこにあると言うんだ。
 まぁ世の中には腹を立てたり、損得を計算するのが大好きな人もいるから、仕方ないんだろうけれど。アタシは疑い出すとキリがないし、疲れるので上手に騙されたいし、上手に騙したいものだと思う。

 表現は表現でしかない。そこにあるのは、仕掛けと虚飾と上手な嘘だ。フィクションが下らなくて、ノンフィクションが素晴らしいなんて誰が言った?

 アタシは良質の嘘を望む。表現の嘘は誰も傷つけないけれど、陳腐な真実は人を傷つけるのだから皮肉なことだ。手品用のナイフは誰も傷つけないけれど、本物のナイフはなまくらでも誰かを殺めることができるだろう。
 もし上手にそのナイフを使いたいと願うのならば、言葉自体がもつ脆さや危うさを自覚することだろうなぁ。この世界は本当に想像力がモノを言う世界なので、叩いた掌が痛むのも、自分の想像力次第の世界だ。自分のふるったナイフが誰かに刺さり、血が流れて痛そうだなあと、反省できるのも想像力次第、流れ出る血をリアルに見れるのも、見る側の想像力なのだ。 見えない人には絶対に見えない。そしてたいしたことないとか、根性がないとか、覚悟がないとか、へたれだとか言う。そういう想像力がないことを、大人だとかクールだとかカッコイーだとか当たり前だとか言う。
 まぁ想像力があることがいいことなのか、ない方がいいことなのか分からない。想像力がない方が、便利だとか、得だとか言う人もいるだろう。でもまぁ何かを作る時には、想像力はあった方がないより幾分マシだということが分かるだけだ。そうして世の中は、作る人と消費する人に分かれていく。
 グルメを名乗る人ほど、テープルマナーは悪い。コックに感謝をしなくてもいいけれど、ここをこうすれば美味しくなるよ、というアドバイスはしないで、ただただまずいと、伝えるだけではなく、その時に食べ散らかした料理をコックの目の前で床に叩きつけ、踏みつける。そしてそれが今の時代の批評だという。言論の自由だという。
 それが客である自分の権利だと思っている。ココロを込めて作ったものが、床に叩きつけられ、踏みつけられれば料理人の心は痛むだろうが、その痛みすらも甘えだと言う。その痛みさえも食い荒らす。それが創造だとでも言わんばかりに。
 自信がないから、作りつづけるのだということを、消費するだけの人間は知らないのだ。
 最近は美味しい料理はなくなった。本物の創造者はいなくなった、こんなもので人々の舌は満足させられるのか、と歎いていれば高尚だったり、見る目があったり、グルメだというみたいだ。本当の見る目があると敬われる人は、時代が求めるものをいち早く探しあて、それを求める人達の目の前に、まるで手品のようにさっと絶妙のタイミングで提示し続けられる人のことを言うのにね。
 作る側の人間と、消費する側の人間の違いは明確で、作る側は未来を慈しみ、消費する側は、ただただ過去を惜しんでみせる。昔はよかった。ここもつまらなくなった。最近は駄目だ。そればかり。舌はとっくに麻痺してしまい、刺激物ばかりを好むようになっていく。
 本当に表現を愛していれば、床に叩きつけ、踏みつけるような真似はできないはずだとアタシは思う。しかし、自作自演だとか宣伝だとか言い出す人達は、人がココロをこめて作った料理を、「床に叩きつけられ踏みつけられる」ような行為をされて、本気で人が喜ぶと思っているのだろうか?金さえ払えば(インターネットの場合は、カウント数?)、喜ぶだろうと、本気で思っているのだろうか?
 「まずい」と感想を言われることと、「床に叩きつけて踏みつける」ことは、全然違うものだということに頭がいかないのだとしたら、これからも素人批評はどんどん地に落ち続けていくのだろう。だって何にも育てない。花が開く前のつぼみを手折り、最近は花がないと歎いてみせる。批評家は、育てることが仕事なのにね。

3. 逆リンク。

 フェアプレイにはまだ早い 2001.3.7(Wed)
 アタシは2ちゃんねる相手に書いている訳じゃないですよ。アタシは棲み分け志向なので、そこから出てこない分には好きにやってくれればいいと思います。まぁ、今回の場合は、メールを出して2ちゃんねるに掲載したという「自己申告」になっていますから、厳密には棲み分け違反で、一歩2ちゃんねるから外に出たなら、2ちゃんねるだから仕方ないな、とはいきませんけど。
 ここでとりあげるものは、色んな人に考えてもらいたい内容だと言うことです。ものを作っていると、なんであいつが認められて、自分は認められないんだ、ということはよくあると思います。アタシも美大受験に失敗した時は、なんであいつが受かって自分は駄目なんだ、とか。あいつは全然予備校にこなかったくせに、とか、苦しんだことがあります。テキストページをもつ人の最終目標が、全て売文だったり、雑誌に紹介されることなのかどうかはアタシは知りませんが、それでもたかがランキングでも日記才人内でなんであんな日記が、とか、ぐちゃぐちゃするんだから、人というのはもうどうしようもなくそういうものなのでしょう。
 その時に、あなたならどういう態度を取る? というシミュレーションとして面白かったので取り上げてみました。自分が嫉妬に苛まれた時、逆に自分が嫉妬される側にたった時。どうしても分かり合えない「常識」にぶつかった時に、我々はこの新しい文化で、どのように対処したらいいものですかねぇ?ということです。2ちゃんだから熱くなっても仕方ない、というのも対処の方法の一つです。損も得も最終的には「自分しか感じられない想像力」だということでしょう。

4. 逆リンク。

 BowaBiwa Notesさんの、2001年03月08日。
 アタシはそこまで、全ての人が「自覚的」にならなければいけないとは考えないんですけど。コミュニケーションツールとしての言葉ならば、「気の合う友達」を作りたいな〜とかの目的で、文章を書かれてもアタシは別にカマワナイと思います。
 まぁ人を集めようと思うのならば、「チーズのイメージ」は必要かなぁとは思います。人を引き付ける美味しそうな匂いを用意する、というか。
 でも、アタシも作品は自分の手を離れると思うなぁ。受信側のアンテナがこっちに向いているかどうかっていうのは、結構重要な問題だと思う。ある種のアキラメを抱えて、書く側が書きつづけるのはわかんないでもないけどな。ターゲットを絞るというのはそういうことだし。
 思いもよらない部分で人が引っかかってくださる場合とかもあって、おお、そんな読み方があったのか!!とびっくりさせられることは多いのだけど。アタシはそれを訂正しようとは思わないな。アタシはこう書いたつもりですが、あなたはそう感じて評価してくださる訳ですね。なるほどなるほど。
 まぁ誰かを気付かぬうちに傷つけたというのならば、訂正も謝罪も説明もしますけどね。それでも、書いたもの、作ったものは、やっぱり書いた人間の手を離れ、受け取った人に磨かれ、叩かれ、世界は成熟していくような気がします。別に誰のために書いた文章じゃなくても。誰かのココロを打つことがあるので、表現って面白いかなぁと思う。
 ユトリロが、アル中の治療のために描かされた絵や、お酒を買うために街で売るために絵葉書を見ながら描いた絵に、アタシ達は感動したりするのだから、表現の神様はなんと気まぐれなことよ。
 表現物は、それ自体悲しんだりしないと思う。ただ誰かが振り向いてくれるのを、静かに待ち続けるだけだ。
 そこに人の温かみが感じられるかどうかは、自分次第だと思う。


今日の反省。 ケーブルを会社に忘れて一日パソコンつかえず。(笑)二日分。





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3/7。 それいけ!!常識・非常識。> ショートカット(時間のない人へ)

1. 日記。

 昨日の日記を書いていて思い出したのだが、自分随分貧乏だったのだなぁと気付く。(笑) ついでに妹とアタシは9つ年が違うので、当時40代前半だった親の経済力+年子(アタシと弟)の大学生二人を養うのと、現在五十代で、子供二人が自立し家を出て行き、妹一人になった今とでは、経済力自体が全然違うのだなぁ。
 アタシが免許を取らない代わりにパソコンを買うお金を半分出してもらい、そうしてパソコンを買い、自分でモデムとネスケ(当時有料)を買い、自分でセットアップし、自分でプロバイダー代を払い、自分で電話代を払ってインターネットを始めたのと、親が買ったパソコンをケープルテレビの人に来てもらってセットアップを全部してもらって、一番最初から常時接続で、通信費もプロバイダー費も払ってもらってネットを始め、高校生で、ケータイを二個ももつ妹では、全然経済観念が違うんだろう。大体アタシが電話を引くことができたのは、大学も三年になってからだったけども。(笑) ポケベルだけを持って、折り返しで公衆電話に走っていたあの頃が懐かしいにゃー。ああ、これがジェネレーションギャップ。台所にお湯の出ない、お風呂にシャワーのない、トイレが和式で、エアコンのない2DKの部屋に、友達と住んでいたのはつい最近のことのような気がするんだけどなー。


2. 常識・非常識。

 ほぼ日刊イトイ新聞の、3/7日の今日のダーリンを読んでて、笑ってしまった。これ、どこに格納されるのかわかんないので、とりあえず転載しておく。

(引用開始)


今日は、ご注意とか書いておきます。
いま、「ほぼ日」デリバリー版って、
3日に一度ずつ配信していますよね。
これ、おかげさまで、ほとんどの読者には好評なんだけど、
時々、トラブルのもとになることがあるんですよ。
まず困るのは、他人のメールアドレスで、
配信を申し込んでしまう「善意の?困ったちゃん」がいる。
こちらから自動配信される確認メールを受け取った人が、
怒りのメールをくれるんですよ。
「申し込んだおぼえはありません!」ってね。
「ほぼ日」に腹を立てられても困るんですよねぇ。
だからやめてね、他人の名前での申し込み。
お願いします、ほんとに。
あと、ケイタイの iモードに転送をかけてる人が、
「夜中に電話が鳴って、彼氏に疑われた。
夜中に配信するのは非常識だ」というような怒りを、
ぶつけてきたりもする。
お前がアホじゃ!とは、ぼくは大人だから言わない。
ただ、これからも夜中であろうと朝であろうと、
「ほぼ日デリバリー版」は、
つくれるときに作って、送信するであろう。
それがメールと言うものじゃ。
大企業の方法なら、こういうご注意専門の人とか、
ちゃんといるのだろうけれど、
「ほぼ日」みたいな家内制手工業みたいなところは、
こういうことも、誰かが言っておかないといけないのよ。
めんどくせぇなぁ、とつくづく思うけれど、
「注意人物」の役をワタクシが、させていただきました。
3万人の、デリバリー読者の皆さん、
うるさいことを言いまして、失礼をばいたしました。


(引用終わり)

 他人のアドレスを登録するっていうのは、間違い、善意、悪意含めて結構いっぱいあって、アタシも沢山苦情を貰ったことがあるんだけど、ケータイのメールを使っていて、夜中に配信するなんて非常識!!なんていう言葉や観念が存在することに思いもつかなかった。まじで。ああ良かった。ケータイ版のメルマガ発行してなくて。(笑)文章長いから無理だけど。ああ、長いから非常識という類のこともいっぱい言われるけどね。(笑)この長さでしかかけないこともあるのだ、ということはなかなか理解してもらえないのだ。
 しかしまぁ常識とはなんと千差万別なことだろう。怒りをぶつける人は自分が正しいと、ちょっとも間違っていないと、正当な訴えをしているつもりだろう。しかしインターネットは世界とつないでて、そしてリアルタイムで、それが本当に常識ならば、時差はどーするんだよ、相手にあわすのかいな?とか。まぁいろいろと面白い常識があるものですわ。メールも時間指定配信ができるといいのかもしれませんわね。メールマガジンは、できるトコロもありますわね。そいや。アタシが知ってる限りですけど、まぐまぐとバブジーンは時間指定ができるけれど、ココデメールはできないです。
 「非常識」という理由で、他人を怒鳴りつけるには、なかなかムズカシイご時世ですわ。怒鳴られた場合、どういう反応をすべきかしら?やっぱり糸井さんのように、優しい言葉で、腰を低く、冗談を交えながらいいたいことを言うというのが一番なのかなぁ。しかしまぁ今のご時世は皆、お金に対しても時間に対しても過剰なまでに惜しんで、「無料」のサービスに対しても、「お客様としての当然の権利」を要求するのが当たり前という、なんつーかとにかく貧乏くさくて余裕がない感じの人が多い。インターネットは特に、なんでも無料が当たり前で、自分の手を汚さないのが当たり前で、本当に本当に貧乏くさいなぁと思うことが多い。いつからそんなに人は人に対して、偉そうになってしまったんだろう?と思う。あーそろそろ読んでやってるっていうのはやめようぜと思うのだけど、書く側がこれを言うと自己弁護と言われるだろうにゃ。(笑) 書く人も読む人も、対等な立場だと思うのだけど。お互いにNOという権利も、YESという権利も持っていると思うのだけど、まぁあんまりそういう意見は今は一般的ではないみたいだ。あー、これは読みたくないなら読むなであるとか、つまんなかったら黙ってされ、つまんないとわざわざ言いに来るな、ということではなくて。 つまんないならつまんない、と言いにきてくれても良いんだけど、その時に「常識」とか「当たり前」とか「無駄」だとか言う言葉を大義名分にしてくるなってことかなぁ。感想や批評ならば自分の言葉で言うべきでしょう。こっちは自分の言葉で語ってるんだから。そしてノーと言う権利をこっちにも与えてよ、ということかなー。

 とまぁグチグチ書いているのは、まるでそれの見本の集大成のような難民板の才人スレッド171番の文章を読んだからなんだけどね。
 自分で書かれていたこと、だとか、周知の事実である、だとか。良識である、だとかいう言葉の中に、ご自分の言葉はどこにあるのだろう? ついでに今はまだ手に届く高さだから、足を引っ張ってやれという貧乏くさい行為に「良識」だとか「進言」だとかいう言葉が使われちゃうなんて、やれやれ本当に嫌なご時世だわ。
 それが良識だというのなら、東京電力に内田春菊のキャラクター(でんこちゃん)を使うなんて、良識がないと進言でもなんでもしたら?内田春菊の方がよっぽどスキャンダラスな人生歩んでるし、自分でも書いてるよ。田中康夫が長野県知事になる時に、沢山同じような内容の怪文書が出たけれど、出していた人も「良識」とか言う言葉を使っていたわよ。長野県民の良識を見せてやれ、とか言ってね。
 東京電力に「ご進言」できなかったり、長野県知事選の怪文書がおかしいと思うんだとしたら、やっぱり「今はまだ手の届く高さで、引きずり落とそうとしたら引きずり落とすことができる」から、その「良識」とやらは発揮されてるんだよ。ああ全く、貧乏くさくて、余裕がなくて、こういう言い方をするのは嫌いだけど、「日本人」って……という感じ。
 大体ネット自体が匿名文化なんだから、なぜ「日記」から、その人の人間性が百パーセント判別できるんだ? フィクションかもしれないし、書いてない部分も多いだろうし、書けない部分もあるだろう。なんで、「周知の事実」なんて言葉で、その作者の人間性がも分かったような気になっちゃうんだ?
 2ちゃんねるに掲載させていただきますっていうのは、名無しさんの「義憤」であるとか、「公憤」であるとかに、トドメを刺してもらうことを期待しているから?こんなに沢山の人が、非常識だと思ってるよー、とか? 自分でトドメを刺す覚悟もなければ、自分の手を汚す気もさらさらない。そこにある明確な職業差別や人が人を馬鹿にするということに対して、「良識」という言葉が使われていることとか、本当にびっくりしちゃうわね。下手するとプライバシーの侵害や、証拠も根拠もない誹謗中傷も、重ねて申し上げますがこのことはご本人が書いていらっしゃったことであり、 彼女のホームページに記載されてあり、日記才人で公開されている以上周知の事実。嘘つけー。もう過去ログはないし、しかもずっと前の話だし、前のHPがあった時から、過去ログを残すタイプの日記じゃなかったじゃんか。この移り変わりの速い時代に、なにが周知の事実なんだよ。
 一体誰がそのメールを書いているのだろう? 言葉を選んでいるのだろう? 主観と偏見と誤解に凝り固まった文章が、なんで本人が書いたことになるんだ。文責という言葉って、本当に都合よく使われているものだわね。自分は責任取らないけど、アタシ達日記書きは、自分の書いたことに責任もつのが当たり前だって?
 その文章は、誰でもない171番さん、あなたが書いたものなのよ? 名前が匿名なのは、インターネットでは全員が同じ条件なんだから。全く常識も良識も、都合よく使われているものだわね。
 それに対して、ご本人の未知さんは、とても立派な対応をされていたと思う。しかしまぁビジネスならば、そういうクレームを対応する専門の人もいる訳だけど、無料で趣味で家内制手工業の我々みたいな素人日記書きは、いちいちそういうクレームも対応しないといけないからほんと大変だわよね。そりゃ、もうお金をもらって文章書いてる分に関しては、批評しても感想書いてもいいと思うよ。でも、趣味で書いているものや、過去に趣味で書いて、今はこの世のどこにもないものに関してまで、同格で責任取れっていうのは無茶な話でしょう? アタシだって、26才の今のアタシが、16才の時に書いたパロディ同人誌に書いてたことと、同列に並べられて、内容が矛盾しているとか、パロディ同人誌を作っていたような奴だからオリジナル性はないだとか、著作権に関して良識がないとか、今言われても困るんだよねー。(笑)

 しかし相手を困らせたり、追い詰めたりすることをやっているのに、それに対して、「義憤」であるとか、「公憤」であるとか、「良識」であるとか、「常識」であるとかいう言葉が、守ってくれるからちっとも掌が痛まないんだとしたら、それこそ怖いことだわね。それこそ人が人でなくなってくわよ。
 あー、で、言論の自由とかはどこに行っちゃったんだろうね? それこそ「良識」とやらが重要だというのなら。

 しかしやっぱり「日記」の問題点というのは、会ったこともない相手のことを、必要以上に知ったつもりになっちゃうのが問題なのかも。分かったつもりになっちゃうと、間違いを犯すのよ?
 作品として読んでも、人間として読んでも、日記の読み方はどっちでもカマワナイけれども。人間として読むのならば、そう簡単に批評できるものじゃないわね。作品としてなら点数つけるのは簡単だけどね。人間を批評したら、差別につながったりするし。

 差別が好きな人というのは、もうどうしたっているのだろう。釣り合いがとれるだとか、相応しいとか相応しくないとか、そういう言葉が好きな人はいっぱいいるものね。
 でも差別が好きな人は、概ね差別を自覚しない。人種差別はいけないだとか言いながら、「良識」とかいう言葉を使いながら、職業差別し、人を差別し、マイノリティを踏みつける。やれやれ。
 世の中には百万人に百万通りの常識があるから、たいていとてもややこしく入り組んで世界はできているけど。アタシの常識では、おいおい匿名にしたとしても、メールをフリーアドレスにしたとしても、自分が書いたという事実は消せないのに、かっこ悪くないのかしら?みっともなくないのかしら?と思っちゃうけど、それもアタシの中の「良識」なので、押し付けられるものではないけど。それでも言うのはアタシの自由だもんな。うげ、かっこわりー!!
 あなたの常識やあなたの良識を押し付けられても困るわけよ。こっちにだって、「ノーという権利」はあって、間違っていたら訂正する権利もあるし、間違った情報で足ひっぱられたらカナワナイ。自分が書いてないことにまで、文責取らされる筋合いはない。
 かっこわりー!!というのは感想としてはいいと思うけど、足引っ張ろうと思うのなら、それなりの覚悟がなきゃやっちゃ駄目でしょ。「そんなに悔しいなら自分の手ぇ汚せば?」というのは椎名林檎の言葉ですが、そう言いたくなっちゃうようなことが、インターネットでは起こり過ぎると思う。村上春樹じゃないけど、やれやれだ。

今日の反省。 花粉到来。死ぬる思い。





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3/6。 人生いろいろ。> ショートカット(時間のない人へ)

1. 日記。

 長崎は、雪だった。軽い気持ちでカジュアルに参加という話だから、気軽に構えていたらすげーちゃんとした結婚式で、披露宴だけに出ればいいのだろうと思って、安易に室内だから大丈夫だ、と思ってチャイナドレス(勿論半そで)とショールで行ったら、パレス結婚式で、室外のイベントが多くて寒くて死にそうだった。階段から降りてくるところから始まり、二頭引きの馬車でチャペルのあるお城のような美術館へ移動。教会式の結婚式に参加。牧師さんの話を聞いていて、やはり信仰のない自分のような人間は、教会式は恐れ多いと強く思う。
 階段に敷かれた赤い毛氈は、風で吹き飛びそうなので、参列者が端っこを踏んで飛ばないようにするため、お幸せなお二人が降りてくるには、道は狭い。花びらを投げるが、風が強くてまともに自分に帰ってくる。ぶーけの代わりにウェディングドレスを着たミッフィーが投げられた。新婦がみふぃやーのため、ハウステンボスでの結婚式だったから。アタシもみふぃやーなので、ブーケは要らんが、ウェディングドレスのミッフィーちゃんは欲しい!!と思ったが取れなかった。
 料理はビュッフェで、とても美味しかった。めちゃくちゃ食べた。長崎では、初日の昼はちゃんぽん、夜はハウステンボスの中のオランダ料理屋でオランダ料理のコース、朝、ホテルのバイキング、ととにかくよく食べた。ホテルはハウステンボスの前のホテルで、温泉があって、とてもキレイで素晴らしかった。温泉に夜二回、朝一回入ったら、入りすぎだと笑われた。そうか?
 初日は長崎市内見物をして、自分か高校の時の修学旅行の時に止まったホテルの前を通ったりして、感慨深かった。うわぁ!!8年前だよー!!!
 で、二日目に披露宴に出て、あまった時間でハウステンボスを回ろうと思ったら、終日結婚式だった。終わったら、もう空港行きの船が出る三十分前で、お土産も買えなかった。
 結婚式はとても素晴らしくドリームとココロのこもった暖かい結婚式だったのだけど。新婦のお父さんの挨拶はとても感動的だったし。自分もあちら側にいたら、きっと感動して泣くんだろうなぁと思いながら、それでもやはり、アタシには人前でチューしたり、泣いたりするのは絶えられん!!恥ずかしくて絶対死ぬ!!と、強く思った。結婚するご両人は、アタシの友達ではなくうさの同僚で、アタシは旅行をかねておまけでついて行っただけで、お二人に会うのは初めてだった。東京の人が長崎で式をやるとなると、オンナノコは特に、シビアだし、社会人になると友達は減るし、交通費も出せないとなると、お客さんも集まりにくいだろうから(アタシは大学時代四年間、名古屋のホテルで披露宴のウェイトレスをしていたのだけど、やはり新婦側の友達を集めるのはムズカシイことであるみたいよ。新婦が、大学から東京とかに出てて、就職も東京でして、でも披露宴を名古屋でやるとかいうと、東京の知人は呼びにくいし、地元の友達とは縁遠くなってるし、といった具合で)、立食のビュッフェのパーティだというし、とりあえず部屋の隅っこで大人しくして、新婦の友達のような顔をしていればいいんだろうと思っていたら、新婦はとてもお友達の多い人だったみたいで、二十人以上友達が来ていて、しかも立食じゃなくて席順もあって、自分は新郎会社席の一番いい席に座らされたので、うぎゃー場違いっていうか申し訳なーい!!なんで自分ここにいるのー!!!!という気分になりました。しかしこんなに友達が集まるなんて、新郎も新婦もとてもイイヒトなんだろうなぁと思った。っていうか、自分が長崎で結婚式あげても、20人も人集まりませんよ。そんなに友達いないよ。うわーん。(笑)
 それでも、うさの同僚のオトコノコ達が、自分は絶対あそこには恥ずかしくて座れないヨと言うのに、強く共感してしまうアタシだったり…。(笑)やっぱり座れないよなぁ…。自分のキャラクターにはあわないんだよにゃー。他人様がやる分にはおめでたいのですが。おめでとうございます。お幸せに。

 で、あんまりに寒くて、風邪を引く。とほ。

 東京に帰ってきたら、立て続けにサザエ顔負けのことが起きて疲れる。間違いなく今、占いを見たら、今日は厄日といったアリサマ。まぁでも人生にはこういう日もあるのだろう…と、帰ってきたら馬鹿妹から、非常に縁起の悪いメールが。仕方ないので電話すると、訳わかんない愚痴をエンドレスで聞かされる。なんかよう分からんけど、大学デビューを前にブルーになっている様子。ついでに春休みで顔をつきあわせる親がウルサイと。でもな。自宅娘なんだから、出かける時に「何時に帰ってくる?」とか「誰と何処に行くの?」とか聞かれるのは普通だろ!!特別厳しくも煩くもないだろ!! 追っかけも出待ちも東京・大阪遠征も外泊も旅行もバイトも許されてるのに、それでまだ親がウルサイというか? アタシの時は、初めてのお子ということで、うちの親は異常にうるさかったが、十年経ち末っ子の妹には、アタシと弟に疲れ果てたのか、超放任に化けた。家も買い、広い部屋も与えられ、そこにはクーラーも完備され、パソコンはケーブルでインターネットが常時接続。推薦で高校に行き、推薦でそこそこの大学にも決まり、何不自由なく生活してるくせに何をヌルイことを言っとんじゃー!!服も買ってくれないって、そんなものはバイトして買え!!
 大学入ったら、サークルで遅くなるから、その時に心配かけたくないから一人暮らししたいのに、親はわかってくれないって、お前の大学は自転車で20分、電車で2駅とかじゃねーか!! おねーちゃんは家を出たから自分の気持ちは分からないって、アタシは片田舎の寮で、門限10時で、二人部屋で他人様と暮らしとったワ!!仕送りなんか四万円だったんだぞ!!寮費と光熱費でおしまいだったんだぞ。電話も二年間つなげなかったんだぞ。 10時までに寮に帰ろうと思ったら、名古屋を八時半に出ないといけなかったんだぞー!!夜遊びなんかできる環境じゃないし、とにかくお金がなくて、服なんか本当に買えなくて、学校では作業着で、服を友達からもらってたくらいだし、とにかくバイトしてバイトして、やっと生活してたんだぞー!!!食うもの食わんと、カメラのレンズ買ったり、ビデオカメラ買ったり、パネル買ったり、画材買ったり、ギャラリー代払ったりしてたんだぞー!!うわーん!!!
 それでまだアタシがうらやましいと言うか?お前一回も金で苦労したことないだろ!! しかも子供の頃から、アタシと親が言い争うのを聞きつづけて、トラウマになって怖くて仕方ないとか言って、アタシのせいにするか?お前なんか殴られたことも怒鳴られたこともねーじゃねーか!!←末っ子はいいねぇ。(笑)あー、もうお父さんが怒鳴るってことは、ココロが元気ってことでいーことじゃんか。本当に病んでる時は口一つきかないんだからさー。
 親がウルサイのは、春休みで顔つきあわせるだけだし、平均的に見てもうちの親はかなり放任のほうだし、家出たいなんて、大学辞める覚悟決めてから言えって感じだし、で、家出たいって金どーすんの? 学校行かないで、パチンコ屋に住み込むくらいの覚悟あんの?というと、お金の話ばっかりしないでよ、自分は夢の話をしてるんだからって、そんなあんたの夢の話なんか忙しい他人様に聞かせんな!!! 家出するなんて、行き先と覚悟決めてから言ってこい!!
 卒業してやっと自由になれたのに親がウルサイって、それは休みで家にいるから顔つきあわせてるだけで、学校始まったら顔つきあわす機会は減るし、大体あんたが大学デビューブルーで、状態が悪いから親の言うことがいちいち気に障るだけで、大学始まっちゃって忙しくしていれば、落ち着くし。大人になったんだからほっといてほしいって、他人と住めば、結婚したって会社に所属したって、何処にいって、何時に帰ってくるっていうのは、聞かれつづけることだし、大体お前、まだ10代だし。眠れないのは疲れてないからだろ走ってこい!!と言ったら、もういい、と言われて電話切られました。(笑)
 あーもうそんなことアタシが知るか!!四月になって学校始まれば全部解決する問題じゃねーか!!大体何かを得れば何かを失うんだよ!!全部は得ることはできないんだよ!!大体家出たいって、金がなきゃなんともなんねーことだろ。金の話はいいからって、一番大切なことだろーが。あー、お前一度でも受験とか浪人とか職決まってなくて、東京で一人暮らしで、貯金がなくて、じょじょに少しずつ削られるような思いを一度くらいしてみろ!!!
 アタシなんか高校受験失敗して、大学受験失敗して、浪人して失敗して、大学行かないといってもめて、大学の寮に押し込まれて、受験して編入して、卒業したら帰ってくるなと言われて、職も決まってないのに東京に来て、東京に来た時は、八万円しかお金がなくて、必至で就職活動と合間合間で単発バイトして、一日一食しか食べられなくて、面接に行く交通費と履歴書に貼る写真にどんどんお金を取られて、一度就職をあきらめて派遣やってスキルつけて、やっとのことで就職してなんとか暮らせるようになって。そうしてお金をためてもう一度学校に行くんだからなー!!お前が大学行かんというならその金よこせ!!アタシが大学院に行ってやるー!!!うがー!!!皆持ってるのに、ブランドもの買ってくれないって、アタシだって26にもなって、一個もブランド物なんか持っとらんわ!!!ゲームも弟の置いていったもので買ってくれないって、アタシなんか寮に入った時なんか、冷蔵庫も机も拾ってきたもの、テレビはおばあちゃんちでもらってきたチャンネルの古い小さなテレビで、エアコンは勿論なく、洗濯機は二層式で、東京に来た時なんかテレビも洗濯機もトースターも炊飯器も音楽を聴く機械もエアコンもなく、あるのはコタツとパソコンと冷蔵庫は備え付けの小さな奴で、自転車もないから洗濯するために一番近くの銭湯まで、20分以上歩いて洗濯しに行ったんだぞー!!! クーラーがある部屋に住めたのは、こないだの引越しでやっと初めてだったんだぞー!!テレビだって、扇風機だって、電子レンジだって炊飯器だってトースターだって、一つずつ自分の誕生日やクリスマスにうさに買ってもらったんだぞー!!←ひどすぎる生活。んが、それも弟と一緒に住んで、また別れて暮らすときに全部弟にもってかれましたが。(笑)
 あーもうお前一回重い冷蔵庫を、オンナノコ二人でゴミ捨て場から9階まで運んでみろ!! お母さんが誰かからもらった服を自分に着せようとするって(うちはおかんが八人兄弟なので、いとこがめちゃくちゃ多いから)、一度生活するために粗大ゴミ捨て場をあさってから言え!!彼氏と夜に会いたいからって、お前、生活が忙しくてオトコと別れたことあんのか? 毎週土日にデートなんかできるか!!生活ができんくなるわ!!←勿論実話。
 仕送りナシで、一人暮らしするって夜遊ぶ暇なんかマジでないんだぞ。大体、新聞配って大学行ったりする人もいるのに、苦労もせず大学に行かせてもらうっていうのになに言ってんの? 三階部分全部自分の部屋にして、エアコン完備の部屋に住んで、料理洗濯ごみ捨て(名古屋では重要科目)、全て親にやってもらってるくせに。で、おかんの作った弁当もって、大学行くんだろー? 金なくて昼飯食えなかったアタシの大学時代とはエライ違いだヨ!!
 それでも高い美大の学費を出してもらったし、親には頭あがんないよ、と思う。でもあんたはまだ若いから、親とアタシのせいで深く傷ついたとか、アタシはずるいとか言うのだね。そんで眠れないというのだね。ああ、ココロの病気だというのなら、病院行って、睡眠薬でももらってきなよ。推薦ですんなり実技もなく女子大の中のデザイン科に行くのにね。それでもすげー高い学費なんだけどさ。(笑)
 あーもう若いんだから仕方ないけどさ。自分の人生だというのなら、大人だというのなら、自由だというのなら、全部自分で責任取りなよ。自由とか大人とかになる代償は、凄く高いんだけど、まぁやりたいならやればいーじゃん。
 電話の向こう側で母親は泣き出すし、あーもういい加減にしてよう…。弟が大学辞める時も、アタシが全部、学校から住む場所から就職まで面倒見てやったんだからさぁ。確かにうちの親はちょっと特殊な人達だけど、もうあんたもあきらめようよ。理想の家族なんかどこにもないんだから。アタシがあんたを犠牲にして、すげー得して、すげー楽したみたいな言い方するなよ、じゃやってみろ、だ。アタシはアタシの人生しか歩めないし、あんたはあんたの人生しか歩めない。大変の質は違うし、得るものと失うものは違う。ヘンに羨ましがられても困るし、美化されても本当に困る。
 もう大人なんでしょ?自分でなんとかしてよ。アタシがあんたの年の頃から、アタシは全部自分でそれなりに責任とってきたんだから。
 アタシがわかってくれないって、わかる訳ないじゃん、あんたとアタシは確かに同じ親から生まれたけれど、違う人間だもの。別の人生を生まれた時から歩いてるんだもの。


今日の反省。 生活に疲れる。





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3/2。 ファンはムズカシイ。> ショートカット(時間のない人へ)

1. 日記。

 ちょっと更新する余裕がなくて間があいてしまいましたね。その間に願書を出しに行き、試験を受けに行き、テストを受けて、面接受けて合格しました。という訳で春から学生です。土曜日だけの研究生だけども。
 簡単なテストというから、三択とかそういうのかと思ったら、全部説明しろ問題がしかも三枚。うわー!!!そんなの忘れたよー!!作業工程の手順を説明しろなんて、リトグラフの作品なんか作ったことねーよ!!!好きな作家と作品名を一人あげて、その理由を説明しなさいって、すいませんアタシ、版画の作家なんか知りません。ここでヒロ・ヤマガタや山本容子を出してはいけないということだけ分かるといった始末。仕方ないから、好きな映像作家の名前を挙げる大馬鹿野郎。だってアタシ、映像専攻学生だったんだもの…。ああ、もう駄目だわ、こりゃ落ちた、と思ったね。でもどういう訳か受かりました。腐っても美大卒だからなんだろうか? ああ良かった。春から頑張らなくては…。
 で、明日から人の結婚式で一泊二日で長崎だよ…。うぎゃー、いそがちー。版画の研究生は、学校では彫るのと刷るのだけだから、家で下絵を作らないといけない。春までに後で楽をするために、下絵を何枚か描かなくちゃいけない。暗室あるから、写真が焼けるぞー!!



2. 当然。

 人が当然とか、当たり前とか言う時の話。
 自分がその当然とか、当たり前と言うカテゴライズに当てはまっている時は(例えば、オトコは働いて当たり前、だったり。女は子供を産まないと一人前じゃないとか)、「これしかできない」ということがその人の「自信」になっている時だろう。
 そのカテゴライズにあてはまっていない時は、それは「理想」だったり「希望」だったり「要望」だったりするのだろうな。例えば、HPを管理してない人が言う、HP管理者なら当たり前として要求される覚悟であるとか。作品を作ったことがない人が言う、作品なんだから批判(批評)されて当たり前という言葉であるとか。

 文句があるなら見なきゃいーじゃん、というのは確かにある側面ではあっているんだと思う。大体漫画家でも作家でも、本来だったらあんまりキツイ手紙とかは、編集者がダム代わりになったりしてたんだろうし。うーん。むずかしいココロ。
 と、(有)椎名百貨店 The Web完成原稿紹介速報1/12日分を読んで思った。これは集約されてるなぁ…。あー、いろいろ思うトコロがあるけど、もうちょっと考える。でも批判精神がなく麻痺していくことも、怖いことだしなー。

3. ファンサイト。

 <特報・サッカーくじ>選手個人開設HPへの出場情報の記載規制。ファン有志による非公式ページについては現段階では規制の手段がなく、あるクラブの広報担当も「選手出場予想についてかなり細かく予想しているものもあるが、どう指導していけばいいか」と頭を悩ませている。 とのこと。
 うーん。ファンサイトも規制の方向かー。あー、ほったらかしとはいえ一応なまものファンサイトを持っている自分としてはあんまりヒトゴトではない話。どこまで規制の方向なのかしら。例えばサッカー選手二次創作ページとかはどーなんの?(イラストとか小説とか)
 まぁ応援するのも、批評するのも、感想書くのもムズカシイこと。

 あめぞう2000で、だだだっとアタシのページは何日分も出るよ、とメールを頂いたのですが、古いカスタマイズだとなるみたいです。理由はわからないんですか…。新しいカスタマイズならならないようです。お試しください。
 ちゅか、なんでアタシだけだだっと出るのかわからなゃい…。むー。

今日の反省。 調子わりー。





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2/26。 これしかできない。> ショートカット(時間のない人へ)

1. 日記。

 野田MAPの2001人芝居を見に行く。
 見てて疲れるような芝居だった。良い意味でね。パワーが吸い取られるというか。
 パンフに書かれていた文章が素晴らしかったので、引用。

 今は東大の総長である蓮見重彦氏が、二十年以上も前に「日本のテレヴィジョンの番組ってのは、すべてタスケテクレとケッコンスルに還元されてしまうんだわ」と書いた。

(中略)

 今にあわせて、微妙に言い換えれば「日本のテレビ番組はすべて、ナカセテクレとエッチシタイに還元される」っていうところだろうか。

(中略)

 四半世紀過ぎても、かようにテレビは変わらない。テレビとはそういうものだ。イヤなら見なければいい。そう思っていた時期もあった。けれども生憎、テレビのモニターから流れ出してくるモノは無料である。空気のように吸い込んでいる。しかも何十年もの間。間違いなく我々は、麻痺し始めている。宗教も哲学も苦手になってしまった、我々日本人の頭の中へ、モニターの中から流れ出てくるものが、どんどん入り込んでいる。そこではあるゆるものが短絡的に行われる。長い時間をかけたものは嫌がられ、答えのないものは理解されない。だが、そのはみ出し流れ出してくるものを、もはや、我々は拒絶できない。

 引用終わり。


 インターネットでもいえることだなぁ。モニターの向こうから流れだしてくる無料の情報は、とくに短絡的に行われ、長い時間をかけたものは嫌がられ、答えのないものは理解されない。



2. これしかできない。

 幸福論についてを書いた時、読者の方から、騒ぐ人は劣等感を刺激されたんだろう…といったメールを頂いた。で、アタシは、劣等感とはちょっと違うような気がして、でもうまく説明できなくて、ずっと考えていた。
 で、考えて考えて、なんとなく分かってきたような気がする。それは、自分が、これしかできない、この生き方しかできないという、自信(プライド)と、これしかできない、この生き方しかできないというコンプレックスなんじゃないかと。
 例えば、性体験の豊富さを誇る愛欲日記に関しての反応とかを見ていると、けして愛欲日記の作者の人を羨ましがっている訳じゃなかったと思う。
 そこから見えてくるのは、自分はこれしかできないんだという「自信」と、これしかできないんだという「コンプレックス」から出てくる、「矛盾した自意識」だったような気がして仕方ない。そこにあるのは、選択肢として、他人の生き方を許容できない余裕のなさだと思う。それは、全く相反した、「自信」と「コンプレックス」という矛盾から生まれてきているのだ。
 自分はこれしかできない、ということ。それはプロフェッショナルの基本な訳だけど、プロよ、と言い切るのはムズカシイものね。謙遜は日本人の基本だしね。
 多分、アタシ達は生きている限り、その自信とコンプレックスとつきあっていかないといけないんだろう。自分が自分らしくあるために。

 で、アタシの話。
 もう願書を出さないといけない。ギリギリまでのばしてしまった。二年間ちゃんと通えるかなぁ。自分の作品作れるかなぁ? 何かを始めるということは、凄く勇気のいることだ。例え、前、当たり前にいた場所でも。
 アタシ自身が今、これしかできないという自信とコンプレックスに苦しんでいる時だと思う。たまに、こんな無理しなくて良いんじゃない?と思う。学校に行くということは、時間もとられる。お金もかかる。体力的にもしんどい作業だ。全ては今までとは同じにはいかないだろう。
 アタシはそれを全て引き受けていけるのかな?と考える。もっと沢山勉強したい。本が読みたい、舞台が見たい。でもアタシのやれることはとても限られていて、アタシは本当に哀しいくらいアタシでしかいられない。とても哀しみながら、前に進むしかない。アタシは、美大生の時、アタシの作品が愛せなくてとても辛かった。あの気持ちを思い出すと、アタシはいまだ、軽く混乱する。アタシが持っているもので、誇れるものがあるとしたら、それはアタシが未来を愛しているということだけだと思う。だから、前に進まざる得ないのだと思う。
 アタシがアタシでしかいられないことが、嬉しくて哀しいこと。
 アタシの会社の近くには、美術の専門学校があるのだけど、今日、ファーストフードのお店に入ったら、そこの学生のカップルが何かを真剣に話しあっていた。別れ話かと思ったんだけど、彼女がセンスに自信がなくて、やるだけやったから学校を辞めようかというような話で、オトコノコが悲しんだり、怒ったりしながら逃げるなと励ましていた。
 とても可愛くて、センスの良い若いオンナノコだった。アタシは隣の席で、美術の学校の受験票を書いていて、なんだかよく出来たお話みたいだな、と思った。
 彼女の持っていた、キャリーケースや画材がとても懐かしくてイトオシかった。アタシ達の道はこうやって別れていく。全く同じ不安を抱いて、彼女は学校を辞めようとし、アタシはもう一度学校へ行こうとする。なんだか切ない時間だった。
 こんな風に混乱するくらい。
 野田MAPを見に行ったスパイラルビルで、職業訓練系の美術系短大の卒展がやっていた。時間があったので見たのだけど、向こう側に隠していても夢と野望と希望が手にとるように見えた。みんなの夢が叶うといいのに、と本気で思った。職業というカタチに結びつかなくても、名声という答えが返ってこなくても。私たちが作ったものは、絶対に残っているよ。それは希望かもしれないけど。
 卒業して行く人。やめようとする人。これから行こうとする人。これから行こうとするアタシ。
 これしかできないという自信と、これしかできないというコンプレックスが、こんなに切なくていとおしくて、やっぱりアタシは痛みながら前を向き、病みながら進んでいく人間が大好きだと思う。

 そしてアタシは、これしかできない。

今日の反省。 混乱。





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2/24。 俯瞰の視点。> ショートカット(時間のない人へ)



1. 日記。

 歯医者行ったら歯が痛い…。一日休み。


2. 俯瞰の視点。

  明和電機の場合。(みのうらさんの風虎日記2月22日)

 明和電機は確かに宗教みたいで、正しいのかも。妙に健全な姿勢(親や家族を尊敬する姿勢とか、ゴミは分別・リサイクルとか、工員さん(技術系職人さん?)はカッコいいとか、非常に健全な道徳心溢れる姿勢)とか、魚器シリーズのコンセプトも確かに「宗教みたい」。
 ついでに、自分が今まで「宗教」と縁がなかったから、分からないから臆病になっている部分があるんだろうなー。使われるのも、使うのも慣れてない感じ。
 まだあんまりまとめられてないんですが、最近の時代の空気が求めるキーワードって、何かしら「そういう思想」が求められている気がしてならない。真宗をベースにした、五木寛之の生きるヒントや他力が爆発的に売れ続けるのも、吉本ばななの癒しの世界が求められ続けるのも、田口ランディの「自然」だったり、「神がかった人々」だったりの世界観が受け入れられてる? かどうかは分かりませんが、とりあえず沢山の人々が田口ランディの本を、買いに行くのも、「宗教」というカタチじゃなくても、ヒトはなにかしら、自分の視点とは別の「俯瞰の視点」というものが必要としてるんじゃないだろうか、と。一番自分自身にあった、キーワードを探している、求めてるんじゃないか、という気がしてならない。
 それは客観、という言葉でもいいのかもしれないけれど、それとはちょっと違う感じ。自分が少し高いところから見下ろされているような視点。そのキーワードはヒトによって違って、「自然」だったり、「損得感情」だったり、「人間愛」だったりするんだけど、例えばアタシが、誰かにヒドイことを言われて、単純に怒ろうかな?と思ったりする時でも、「ちょっと待って、それってみっともないよ」だったり、「あとできっと後悔するよ」と、教えてくれる自分よりちょっと高いところから、見下ろしている誰かの視点を感じる時があるのだ。
 明和電機は魚器シリーズのことを、魚を使った自分自身のシミュレーションと言ったけれど、そういうシミュレーション作業を共同で行うことが、自分自身を見つめるために、ヒトにはなにかしら必要なんじゃないか、という気がして最近ならない。
 ヒトが集まる所に、ボランティアにしろ、ボーイスカウトにしろ、ある種の「思想」を感じるのはそういうことかなぁ…。2ちゃんねるだって、「自分自身のシミュレーション」のために存在する「場所」だと考えると、非常に分かりやすい場所なのだ。ヒトが個を捨てたり(名無しさんってそういうことよね)、ここだから吐けるという場所や言葉をもち、そして普段の自分と切り離す行為が、それも集団で行われるところとか、非常に自分自身を見つめるシミュレーション要素が高いと思うんだよね。学ぶことは勿論沢山あるだろう。アタシが、2ちゃんねるに対して、興味がつきない所はそういう意味でだと思う。
 アタシはアタシのキーワードで、自分の魂の色だったり、自分の中の凄く大切な柔らかい部分が濁ったり、固くなるような気がして仕方ないので2ちゃんねるには書き込まないんだけど。そのアタリに、「俯瞰の視点」による行動の個人差が出るような気がする。自然を大切にすることが、大事だと思うヒトは行楽に行って、ゴミを面倒でも皆が捨てていても、きちんと持ち帰るように。そういうこだわりがとても大事なことなんじゃないか、と思うんだ。自分らしくあるためにも。ヒトがヒトらしくあるためにも。
 何かしら、「信じるもの」「大切なもの」を持たないと、ヒトって駄目なんじゃないかなぁ…と。日本人に「宗教」がなくても、「宗教」に変わるものは、やっぱり誰もが大事に持っているような気がする。
 うーん。やっばりうまくコトバにならないなー。でも最近のヒトが集まるものって、何かしら「そういう思想」を大事に抱えてるもの、のような気がする。時代が、信仰に変わる俯瞰の視点(天からのコトバ)を求めてる、っていうか。
 それともヒトが集まると、そういう思想が生まれてくるのか、卵が先か鶏が先かはわかんないけど。まぁそういう思想に、他者からのフィードバックは不可欠だったりして、見せびらかしたり、パフォーマンスしたり、人は自分の人生や生活日常を、インターネットにアップしちゃったりするものだよ、とか。あああ、まとまんにゃい!!
 まぁ何かしら信じることができるものをもつことって、そんなに悪いことでもないさってことかなぁ…。宗教だったり、信仰だったり、信者という単語自体が、ネガティヴなイメージを持ってしまったことが問題なのかなぁ…。そう感じる心が偏見だとしたら、アタシが悪いんだけど。まさしく、アタシは自発的に傷つきに行ってるんだよね。その言葉で傷つくヒトが一人でもいたら、使いたくないな、という理由であっても。


 有里さんの23日

 アタシ自身、総合芸術が「宗教みたい」と形容されるようになってから、アートを学んだ人間なんだった。そういえば。
 アタシは、パフォーマンスはそんなにやってなくて、課題でやったくらいしか経験はないけど、ちょうど大学一年か、二年か?の時にオウムの事件があって、それ以降すごーく取締りが厳しくなったのを覚えています。(笑) ゲリラ的なパフォーマンスを好むヒトたちが、よく警察に捕まってました。 人々の囁きは、「あれ、オウム?」ばかりで。あー、まぁ街の中でヘンなカッコしたり、白塗りの顔をしたヒトが踊ったり、練り歩いたりしたら、怪しいでしょうけど。(笑)
 言葉にも時代性が出るなぁ……。

 フェアプレイにはまだ早いの2001.2.23(Fri)。
 「宗教みたい」という話について。あー、戦後ではなくて、江戸時代からなのかぁ。←無知ですいません。(笑)
 日本にはカルト以外の宗教はない、とは思わないけれど。新興宗教以外の宗教は確かにないといえるかもしれない。仏教にしても、神道にしても、歴史的に断絶された時期があって、大きくカタチが変わったことで、培ってきた歴史の重みを失ってしまって、「新しく」なってしまった、というか。
 江戸時代か……。なんだか…、「士農工商」みたいな選民制度、差別主義が、インドのカースト制度みたいに、宗教に変わる大きな価値観として使われていて、そのまま今にいたっていたらいやん、だとか突然突拍子のないことを考えてしまった…。あー、アタシ、世界の歴史には全然詳しくないんですが、「同じ民族内」で、差別的な選民制度をしいていた歴史のある国っていうのは、沢山あるものなのでしょうか? 勿論どこの国でも、王様の子供は王様な訳だけどもさ。明文化されてたか、という意味で。キリスト教圏ではなさそうな感じだなー。聖書の言葉と反するし。
 しかし、自分、全然勉強してないなー。教科書にそういうことは載っていたのかしら?アタシ、大学では実技しかやってないので、学力は高校卒業程度の上、日本史選択なので、世界史さっぱりです。何が言いたいかって、日本という国の「差別意識」は表に出てこない分、「根が暗く深い」気がして仕方ないんだけど、それはどーしてかな?ということなんですけどね。なんというか貧乏くさい、というか。そう思うのは、ただ単に「海外」経験がまったくないので、比べられないだけで、ヒトとは本質的にそういうものなのかもしれないけれど。おお、こういう時にヒトは勉強したいと思ったり、留学したいと思うのだね!!←自己完結。

 あー、なんかまとまんないぞー。調子悪いみたいだ。
 ところで、時代に変わる言葉って、ご時世とか? それでも大仰かな。おお、大仰の仰って、信仰の仰と同じ漢字を書くんだね。 結局何かに偏ってるってことなのかな。しかしじゃあ偏ってないってどういうことかなぁ。なんだかヒトは、偏らずにはいられない気がしてきた、そんな今日この頃。とりあえずもうちょっと勉強しよう。

今日の反省。

 歯が痛いと、思考は散漫に飛びまくる…。



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2/22。 時代の空気。> ショートカット(時間のない人へ)



1. 日記。

 ヘンな神様が降りてきているので、マジメな文章が書けません。ぼすけてー。


2. 言葉はあなのあいたコップさ。

 言葉に関する認識の相違について。
 そっかぁ。Mint Julepさんの言う「時代」って、アタシの思うトコロの「歴史」なんだなぁ。アタシにとって、今を語るのが時代で、後から見えるものは歴史なんだよね。時代は変えられるもの、変わるもの、変わっていくもののことで、後から見えるもの、もう変わらないもの、終わってしまったもの、のことは、アタシは「歴史」という言葉を使うなぁ。本当に凄い認識の違いだ。
 あと、表現についての感覚が違うのカモ。以下、吉本ばななのばななブレイクより引用。

 何かを創る人間にとって最も大切なことは昔から変わらない。自分が時代の空気を自由に呼吸し、得た感動を消化して作品にして、世間に還元しているという実感だ。

 引用終わり。

 アタシにとって、時代は今ここにある空気みたいなものだ。時代という言葉は当てはまらないかもしれないけれど、ちょっと他の言葉では置き換えられない。考えたけれど思いつかない。なんというか、肌や五感で感じられるようなものなのだ。勘がいい人になりたいといつも思ってる。勘がいい人というのは、吉本ばななも言っているけど、「時代の空気が読める人」だと思う。成功した表現者、というのは。時代が求めるものを読んで、カタチにして、人々に絶妙のタイミングで提示できる人のことを言うのだと思う。
 時代の空気を肌で感じる、という感覚は、あんまり共通の感覚ではないのかなぁ。この漠然とした不安だったり、何かが今変わろうとしているな、という予感だったり、キリッと冷えた朝の空気を吸うような、そんな五感に訴えかけてくるようなこの感覚を、アタシは時代という言葉で表現するのだけど、他の人はどんな言葉で表現するのかなぁ?
 アタシがカタチにしたいのは、時代の空気がアタシに与える「ショック」みたいなものなんだけど。ムズカシイなぁ。


 有里さんが、アタシの分かりにくい文章をご親切に解説してくださいました。ありがとうございます〜!! しかしアタシほんとに分かりにくい文章しか書けないにゃ。とほ。(泣)
 幸福論関係 つづき

 宗教みたいで、気持ち悪いは、ああなるほど!! 受ける側のアタシに偏見があるんだなぁ…。 自発的に傷ついてたんだなぁ…。きっと。
 明和電機のオフィシャルの掲示板でも、「宗教みたい」と言われたということは、話題になっていました。やっぱり皆、言われたんだなぁ…。(笑)
 宗教みたい、という言葉でさしているのは、確かにカルトのことだと思う。しかし、自発的に傷つく人が多そうな言葉だなぁ。ムズカシイ…。

 あ、電池切れた。今日はここまでー。(笑)
メモ
 明和電機の「見せびらかす」という言葉から、ネットの見せびらかしについて考えよう。
 時代の洗礼とカルチャーショックについて。




今日の反省。

 創作熱衰えず。日記熱下がりまくり。まずいまずい。(笑)



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2/20。 「時代」がここのキーワード。> ショートカット(時間のない人へ)



1. リンクネタ。

 今日の逆リンク。
 Mint Julepさん。とりあげていただいてありがとうございます。
 えーと。今まで何度も書いてきたんですが、言い訳じゃなく、もともとこのページは、「時代」をテーマに書いているものなんですよ。
 もともとこの日記は、「何かを書いて残すなら、今が一番良い時期だろう」と思って始めたもので、キーワードはずーっと「時代」になっています。何度も書いたけれど。
 帝國サイトにおいてあったページから、日記だけ移動させて、リードミーや日記猿人(当時)に登録した、9月30日に、アタシは「三十歳のアタシへ」という文章を書いています。
 基本的には、後で読み直した時に、ネットワークの時代性の主観的な自分のための記録になればいいな、2000年12月は、自分のいる環境はこんな感じで、周りはこんな感じだった、アタシはこんなことを考えていた、という記録で、後に変わっていくだろう時代と自分を楽しもう…という目的です。(12/25日分より引用)
とか。
 アタシはなにごとにも、「誰かが望んだからこうなったんだ」と考える人間で、それが時代だと思うのですが。一体誰が望んだのかはとても興味があるし、そしてどちらに進むのか興味があります。(11/25日より引用)とか。
 そういう基本姿勢で書かれているものです。ウェブ日記の自覚はなかったりします。まぁだから、最近、1.日記、というタイトルで日記を書いて、以降は雑文、というスタイルに変更したんですけどね。(笑)←才人に雑文で更新報告するのがしんどくなってきたので。(笑)
 アタシは割と長いこと発言を続けていますが、マジメな文章を書き続けるのはこれが初めてです。マジメなことやメッセージ的なことは、「小説(フィクション)」で書いて、日記(ノンフィクション)では適当なことばかり書いていました。
 アタシは自分の今の年齢が、書いて残すのに一番適した年齢かなぁ、と考えて、自分の記録と自分の身近な友達に向けてこの日記を書いています。とりあえず一年はこの姿勢で書きつづけるつもりです。その後はまたメインの活動はメールマガジンと小説サイトに戻すつもりです。もともとオープンスペースにこだわっている訳ではないので。ああ、勿論置きっぱなしにして、消すつもりはないんですけどね。ちゅーか、今、小説書きたい熱が上がってるので日記更新がしんどい…。←熱しやすく冷めやすい人。

 そうそう、最近、ずっと「時代の洗礼」について考えていたのです。分かってきたことは、人はそんなに簡単に変われない、ということです。でも今日は眠いのでまた今度。

 その他逆リンク。
 Escape@PrivateLink。 どなたのリンク集なのだろう…?とりあえずリンクありがとうございます。

 本当は今日は日記更新するつもりじゃなかったんだけど、更新したのは訳があります。久しぶりに2ちゃんねるから人が来るから、なんだろう?と思って、才人スレッドを見てみたんですけど、難民の才人スレッド128番さん。M子さんはアタシじゃないよ。別の方ですヨ。ご迷惑かかるといけないからリンクは貼りませんけど。


今日の反省。

 創作が止まらず。一日で五本小説をアップした。(笑)←秘密の場所に。(笑)



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2/19。 逆リンクとか。> ショートカット(時間のない人へ)



1. 日記。

 日曜日、のここと夜、有楽町で待ち合わせるが、のここが行こうとしていたインドネシア料理の店はお休み。急遽、焼肉に変更。
 めくるめく馬鹿話で、ヘンな神様の声を聞き、妄想創作熱が久しぶりに上がる。ああ、やはり妄想は自家発電に限るヨ!!←最近ののこことアタシの合言葉。もしくは、「自分を自分で慰める」って、うわ!!ネガティブ!!


2. 幸福論関連。

 幸福論関連で、リンク&引用ありがとうございます。

 BowaBiwa Notesさんの02月16日(金) あんこコーヒーとともにみなみさんの「幸福論」を吟味する。
 あんこコーヒー…? それは名古屋でも日常的な飲み物ではないと思いますが。多分…。←いちお本当に名古屋出身。(東京で名古屋出身を名乗る人は話をよく聞いてみると、春日井出身だったり、一宮出身だったり、豊橋出身だったり、岐阜出身だったりする…。)
 取り上げていただいてありがとうございます。

 有里さんの2/15日。「幸福論は必要か?」について。
 えーと、「表にでてきてメジャー(=多数派)になる」とは考えてないんです。マイノリティーは絶対にマイノリティーであり続けると思うんです。「ただ単に表に出てきて、目につくのが嫌なのかな?」という感じがしたんです。目につく度に、それは自分の選んだものが本当に正しいのかしら?と、振り返らざる得ない「きっかけ」になるんではないかと。いつもは見ないように努力してるのに。
 例えば、未来は分からないですが、今の所やはり「結婚しない女性」は少数派になります。人が何かを得る代わりに何かを失う以上、「結婚をした女性」にとって、「結婚しない女性」は、「過去の自分」と重なるし、そして「願わくば自分より不幸でいて欲しい存在」だったりするんじゃないか、と。だから、「結婚しない女性」が幸せそうだったりすると、ふと自分の選んだものが本当に正しかったか不安になったり、「結婚してないのに幸せだと言う女性」を「強がっている」とか、「無理している」とかいうことにして、その不安をなかったことにしたいんじゃないかなぁ、と考えたりするんです。
 えーと、これはですね。実際に現実にアタシ自身がよく言われるからです。(笑)被害妄想とかじゃなく。
 マイノリティーはやっぱりマイノリティーであり続けると思います。時代はそんなに簡単にひっくり返ったりしないので。例えば夫婦別姓の結婚を望む人が、過半数を超えれば、すぐに法律が変わるでしょうが、そんなことは今の日本では、今の所ありえないので、法律はなかなか変わりません。そういった根付いた「当たり前」を変えることは凄くムズカシイことだし、法律が変わったとしても、「夫婦同姓」に、「夫婦別姓」という選択肢がプラスされる話で、「夫婦同姓」がなくなる訳ではないのです。マジョリティーは当たり前にありつづけ、マイノリティーは選択肢の一つとして認められていくと考えています。勿論時間がマイノリティーをマジョリティーに持っていくかもしれませんが。
 選択肢の一つとして、マイノリティーを認めることもできないマジョリティーの「余裕のなさ」みたいなものに、怯えみたいなものを感じたのです。
 確かに、悩むことが少ないほど幸せだというのならば、選択肢は少ない方が楽だし、選ばなかった選択肢が魅力的に見えることは怖いことかもしれないなぁ、と。
 初めからなかったのなら、その選択を選ぶことが「間違い」だったなら、確かに楽だろうなぁ、という意味で、目につくことが不快なことなのかもしんないな、と。

 偽善については、最近これって、「そいつを言ったらおしまいよ」的な言葉だなぁ…と考えていました。ウザイ、痛い、キモイも同じですが。
 どっちかというと「逃げるための言葉」という感じでしょうか。「偽善」という言葉が、トランプのジョーカーみたいに使われてる気がします。パスだったり、無敵だったり、どんな手札にも変えることができたり。「偽善」の意味を確かに考えて分かって使っている人は少ないと思います。

 幸福論に関しては、とりあえずある種の人々は、幸福論よりももっとリアルな「不幸論」を望んでいるような気がしてきました。不幸の鋳型。不幸の典型。そこまで落ちなければ「普通」だったり、「人並み」だったりする物差しみたいなものでしょうかね。


 その他逆リンク。
 Inner Space@adramineさん。 長くてすいません。(泣)
 更新間隔が中途半端なサイト用あんてな 「ちゃらんぽらん」 なんだか凄い顔ぶれが並んでいて、ドキドキです…。
 その他、リンク気付いたら逆リンクするんですが、気付いてない場合もあるので、リンク踏んで教えてください。
 引用・言及されていても、ご迷惑を考えてこちらから取り上げない場合もあります。そのヘンはアタシのキマジメさだったりするので、汲み取ってくださいねん。ちなみに、帝國・めるまが関連はここではあえて取り上げません。

今日の反省。

 メールの返事がまたたまってしまった…。ついでにどうも一週間前くらいに未着のメールがあったみたい(ヤフオクで、送ったメールが届いてなくてちと問題が…)なので、随分前にメール出したけど、返事こないぜ!!という方は、もう一度送ってください。お願いします。



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2/17。 宗教みたい。> ショートカット(時間のない人へ)



1. 日記。

 明和電機ビットマンのイベントに行ってきました。マジカルビットナイトとかいう名前で、ビットマンを持って「マジカルな格好」で来い、という話だったので、会社帰りのスーツ姿では浮いてしまう!!!と思い、どうせのここはアジア系で攻めてくるな、と分かったので、会社に着替えを持参。こっそりトイレで着替えて、上からロングのコートを着て、何食わぬ顔で、会社を出る。コートの下は全身アジアな怪しい人。(笑) 表参道駅で待ち合わせたのここは、やっぱりマジカルな格好をしていた。で、会場のナディッフへ。百人くらいの人がきていたのだけど、平日だからなのか、マジカルな格好をした人なんか誰もいないよ!!!アタシ達だけだよ!!本日の「キング・オブ・マジカル」はアタシ達だヨ!! うわん!!帝國の式典会場は、ロリータとかコスプレとかがいっぱいで、どんな格好しても全然目立たないから、イベントといえばそんなもんだと本気で思ってたヨ!!←本気。
 前、明和電機のライブに行った時、チャイナ服の集団とか、作業服の人達がいっぱいいたから、このくらい全然平気だと思ってたんだけど、マジカルな人は一人もいないじゃーん!!目だってるヨ!!うわーん!!
 イベントは、オリエンテーション仕立て。ネタばれになるのかなぁ? 一度きりのイベントだから大丈夫だよねぇ?(笑) ついでに明和電機ファンが見にくるページでもないしね。(笑)
 という訳で、書きます。←自己完結。 社長は体調不良で欠席。 副社長の挨拶で始まり、お茶が配られ、グッズを作っているキューブの社長さんの音頭で乾杯。が、お茶を飲んだ途端、キューブの社長が苦しんで倒れる。
 すると正義の味方、刑事バン、という目にビットマンをつけた正義の味方が現れて、ダイイングメッセージを探せ、とヒントの書かれた紙を配られてオリエンテーション開始。表参道の占い師、とか。ハチ公前とか、指定された場所に行き、単語を集める。胸にビットマンを光らせて、表参道から原宿、電車に乗って渋谷へ。あー、こりゃいい宣伝だー。ちゅか、行く先々で、何あれ?という視線で見られます。胸でダイオードがピカピカしてんだもーん。(笑)
 途中、時間があり渋谷西武のエーデルワイスという店でメシ。勿論、明和電機の名曲←ちゅか、アタシは一番好きだ。 のエーデルワイスにかけております。(笑)
 指定された時間に指定された場所に行くが、どうも問題があったみたいで、移動してしまった模様。ターゲットを探して渋谷を走りまわる。アタシは東京の地名にはうといので分からないんだけど、多分有名な公園みたいなところに皆さん集合されていました。胸にピカピカ光るものをつけた人達が大量に集まってるものだから、外野からは「何あれ?宗教?」というツッコミとともに、外野の人達が遠くから見守る中、副社長登場。全員で「地球のプレゼント」を歌う。で、再び後ろ指指される中、渋谷まで歩き、「広告塔」の気分満喫。ナディッフに戻って、グッズもらってオシマイ。
 その後、クラブでオノさんのビットマンのイベントがあったらしいけど、こんなに入れない、という話だったので、入れないなら諦めるか、とやめた。という訳で、オールナイトではなかった。で、飲んで帰るが、マジカルなアタシとのここは落ち着いた飲み屋でも非常に目立つ。(笑) 電車がなくなり途中からタクシーで帰宅。 副社長超カッコよかった。ちゅか、遠いぜ。一緒に写真が撮ったりできるか、と期待したんだけどにゃー。(笑)

 という訳で、ビットマンの宣伝でした。(笑)皆さん、ビットマン、カワイイから買ってください。(笑)




2. 宗教みたいという言葉。

 ビットマンのイベントの時も感じたし、最近のインターネットを見ていても感じることなんだけど、理解できない、分からないものに対して、非常に安易に「宗教みたい」という言葉が使われていると思う。
 ビットマンのイベントの時、聞こえるような大きな声で、「なんだかヘンだよ!!胸でなんかピカピカ光ってるし!!宗教みたい!!見ていこうよ!!」と嬉しそうな声で、連れの人の腕を引っ張っているオンナノコがいた。なんで嬉しそうなんだろう? 聞こえるように言うんだろう? というか、「宗教みたい」ってどういう意味で使われてるんだろう? アタシは神様は信じないけれど、信じることがいけないこと、だなんて思わない。信じてる人を差別したり、区別しようとは思わない。だから、「宗教みたい」といわれて、怒ってるわけじゃないし、失礼な、とは思わないんだけど、あまりに「安易」に使われてないかなぁと心配になる。ついでに、そんなに「信仰」がある人を馬鹿にする、もしくは「見世物」にすることに、悪気を感じないんだろうか?人を指差したりすることは、失礼なこと、だと思うんだけど。「宗教みたい」なら、指差して笑ってもオウケイ?
 大体が「お祭り」や「バレンタインデー」だって、「宗教行事」であるハズだが、騒いでも集まっても、ちょっとおかしくても、「宗教みたい」とは誰も言わない。この日ばかりにチョコレート売り場にオンナノコが群がる姿ってやっぱりちょっとおかしいと思うし、お祭りだからって裸になったり、水に飛び込んだりするのだってやっぱりちょっとおかしいことだと思う。でも「宗教」だという意識はなく、「宗教みたい」だとは言わない。クリスマスや初詣、お祭りにバレンタインデー。日本人の大体が、何か一つは毎年やっている行事だと思う。それに何万とお金をつぎ込んでも。会社休んでも。誰かに向かって使う、「宗教みたい」という言葉の意味と同じことを自分がしている、とは考えてないと思う。
 アタシがここで問題にしているのは、「第三者」に向かって使われる「宗教みたい」という言葉。ただとても好きだ、という人に対しても、安易にその言葉は使われ過ぎていると思う。「宗教みたいで、気持ち悪いよ」と。セガ信者だとか、小林よしのり信者だとか、まぁ本当に沢山信仰があるものだ。さすが八百万の神の国。ボランティアにまで、「宗教みたい」という言葉が使われていたりする。事故にあった宇和島水産高校の掲示板に、行方不明者が無事見つかりますようにお祈りしています、と書き込むことも「宗教みたいで気持ち悪い」だ。
 やっぱり日本には信仰の自由はないのかなぁ…。確かにカルトで日本は傷ついたから、仕方ないのかもしれないけれど。日本だけじゃないかなぁ、こんなに宗教に関して嫌悪感が強いのって。
 メールマガジンで書いたか、HPで書いたか、メーリングリストで書いたか、どれで書いたか忘れたけれど、アタシは宗教に関しては全然詳しくないし、本も読んでないのでもう使い古された論理なのかもしれないけれど、アタシは、日本という国が、宗教に関して嫌悪感が強すぎるのは、日本が戦争に負けて、天皇が現人神じゃなく、人間だという宣言がされた時に、国民全体が徹底的に「宗教に裏切られている」から、それだけ戦争が激しくて、沢山の人が傷ついたのだから、仕方ないことなのかなぁと思っている。オウムは確かに宗教は怪しい、と「決定」づけてしまったけれど、日本は戦争のために、全ての宗教を否定して、天皇を現人神として祭りあげた時に、生活に根付いた宗教はすでに死に絶えてしまったんじゃないかと思う。そして、戦争に負けて、現人神が人間になった時に、救いようがなく宗教は地に落ちてしまったんじゃないかと。そして、それ以降現れる「新興宗教」はどこか地に足がついていないと、人に感じさせるんじゃないか、と。
 無茶な戦争を二度と繰り返すまい、と政治と宗教が結びつくことに対して、人はとても過敏になっているし、宗教=傷つく、損をする、という風に「学習」させられてしまってるんじゃないか、と。だって日本だけなんじゃないか、と思う。こんなに宗教に関して怯えきっている国って言うのは。

 そしてなんだか分からないもの。自分にとって価値がわからないものに群がる人の形容詞が、全て「宗教みたい」になってしまった。好きなものに対して悪く言わないことも、宗教みたい。線路に落ちた人を助けようと飛び込んで、命を落とした二人の人に、感動するのも「宗教みたい」。そして、義援金として寄付する人達も「宗教みたい」。
 アーティストが亡くなって、悲しむファンの人達が集まるのも「宗教みたい」で、自分にとって価値のないものに、大金を払う人も「宗教みたい」。 ボランティアも介護もゲーム好きもコスプレも、「宗教みたい」。行列のできる店に並んでも、一人の作家のファンだとしても、アイドルの追っかけしてても。
 「宗教みたいで気持ち悪い」っていったいなんなんだろう? そう言われた時に、どう感じれば良いんだろう? どうしてそういう言葉を、「時代」は安易に使わせるんだろう?
 「宗教みたい」だ、と誰かに言われることは、案外とても多いことだと思う。帝國に行っても、明和電機が好きでも、コミケに行っても、ゲーム好きでも、村上春樹が好きでも、吉本ばななが好きでも、ちょっと目立つエスニックの服を着ても、言われたし、言われる可能性があるんだから。
 しかし言われた時どう思えばいいんだろう。開き直ればいいのか、それともそれは「宗教みたいで気持ち悪いからヤメロ」ということなのかしら? しかし大抵の人が、例えば亡くなったら、なくなったら、勿体なくて哀しい、と思う、作家だったりアーティストだったりクリエーターだったり、ものだったり、作品だったりはないものなのかしら?
 アタシはなんだかんだいっても、オタクのDNAをもつ人間だから、例えばアーティストが何かで亡くなって、悲しんでるファンの気持ちとか痛いほど分かるし、それを「宗教みたいで気持ち悪い」なんて言えないんだけど。そういう思いって、共通ではないのかなぁ。
 そういう意味で、例えばHPの閉鎖とか、掲示板があらされるのとか、好きな人達は悲しいだろうなぁ…とやるせなくなるんだけどなー。
 うーん。趣味を持ったり、やりがいを持ったりすることって、実は「宗教みたいでカッコワルイ」ことなのかしら?やれやれ。時代は、「何も大切なものを持たないこと」をカッコイイとするのかしらね。まぁクール、かもしんないわね。
 でもさぁ、この違和感はなんなんだろうなぁ? 信仰をもつ人達に申し訳なくも思う。やっぱり不思議なんだもの。支持する政党をもつことや、政治に関心があること、環境問題に関心があり、リサイクルを頑張る人も、個々としてとても立派な人であるハズなのに、世界のグローバルスタンダードでは、環境問題や政治やボランティアに関心があり協力を惜しまないことは、当然要求されることのはずなのに、日本では「宗教みたいで気持ち悪い」と言われたりするんだもの。でも、太ってないこととかは、日本では必要条件みたいだけどさ。ビジネスでは政治・宗教の話をしないことは、客商売でもマナーになってるものね。ああでも、お祭りに会社がお金を出したり、バレンタインデーやクリスマスをビジネスにするのはオッケイなのか。やっぱりヘンなのー。
 この違和感はなんだろう。罪悪感はなんだろう。 とにかく安易に第三者に向かって使う言葉ではない気がする。色んな意味で。感想の形容詞としては一般的に使われるには、乱暴すぎると思うし、自由じゃないし、信仰を大事にしている人達に対してとても失礼だと思う。「宗教みたいだから、見たい」っていうのは、やっぱりオカシイ気がする。
 とにかく、アタシは「宗教みたい」という形容詞を使うのはやめよう、と思った。やっぱり安易に使う言葉ではないと思う。

3. 夢の話。

 交通事故で亡くなられた藤倉和音さん お別れ会(通夜)および作品展示のお知らせ と、関連の文章を読んだりしていたせいもあると思うんだけど、某リッター(劇団第十四帝國では、劇団員のことをリッターといいます)が、交通事故で亡くなるという縁起でもない夢を見た。大体帝國は、交通事故率がすげー高い。気をつけてー!!!
 で、アタシはそのリッターのファンではないのだけど、それを知り慌てて知人のファンのオンナノコと連絡を取り会いに行く。そして悲しんでいる知人のオンナノコの姿を見て、彼女達が凄く好きだったことを知っていたし、とてもとても哀しくなって、自分も泣けて、現実で泣く自分の声で目が覚めた。アタシはよく夢で泣いて、自分の嗚咽で目が覚める。(笑)
 のここが2/15日に取り上げてた、EQの話を、金曜日にのここに会った時にしたんだけど。
引用。

EQ=人間力、情動の能力、相手の気持ちを理解する能力。
最先端の認知科学では、IQと同様EQというものがある、という説が有力らしい。同情ではなくて共感。相手の悲しみや怒りなどに感情を同調させ、共に悲しみ怒るだけの同情ではなく、その気持ちを理解することのできる能力。

引用終わり。

 なるほど。となると、宇和島水産高校の掲示板に、無事をお祈りします、と書き込んだ人達は、「EQの高い人達」ということになり、気持ち悪いとか書き込んだ人は、逆に「IQは高いかもしんないけど、EQの低い人」ということになる訳だ。
 EQが足りないことは、やはり自慢にならないことだと思う。さて、あなたはEQに自信がありますか? しかしインターネットでは、EQが低く感じられる行動を取る人が多いような気がするのはなぜかしら。
 アタシは、IQは低くても、EQは高く持ちたいものだなぁ…。やっぱり。
 ちゅか、話被るけど、「宗教みたい」という言葉を第三者に向かって使うことって、EQ低く人に見せる行為かもしんない、と思った。共感力が強いと、「騙される」とか「損をする」と不景気だから特に感じるのかもしれないけれど。やっぱり真実だから、誰かが傷つくことも、してもいい、言ってもいいとか、犯罪じゃないから、言論の自由があるんだから、悪意がある言葉も使っていい、というのは、「共感を呼ばない」行為だと思う。
 想像力がないことを自慢したり、EQが不足していることを、「普通」だったり、「正しい」というのは無理があるなぁ…。確かに、「清い水には魚は住まない」かもしれない。人には矛盾もあるし、汚い部分もあると思う。それでも、やっぱり「それが全てじゃない」と思いたいなぁ。アタシは。
 例えば悲しむ友達を見ていて、話を聞いて、一緒に涙するアタシは、自分に酔っている、気持ち悪いと言えるのかもしれないし、第三者はそう見るかもしれない。そう批判するかもしれない。でも、この胸の痛みはなんだろう? この胸の痛みは、本物なのに、この痛みは本当に偽物なんだろうか? 偽物だから、価値はないんだろうか?
 そんなに人が、誰かの痛みに対して無関心だったり、あざ笑うことがカッコイイことなのかしらね? わかんない。わかんないけど。アタシはアタシでしかいられない。宗教みたいだと言われても。無意味だと言われても。偽善者だと言われても。
 ただ分かることは、アタシはそれで「損」をしたりしない、ということだ。それドコロか、「得」をしていると思う。アタシは泣いたり共感したり感動することを、勿体ないことだなんて思わない。帝國に行けば楽しいし、明和電機はアタシにパワーをくれるし、宗教みたいでも吉本ばななの世界に確かにアタシは癒される。アタシはそれらを必要としてる。お金を使うことを惜しまない。エスニックの服はヘンな目で見られてもカワイイ。きっととても単純なことだ。アタシはそれらを本当に必要としてる。帝國が崩壊(劇団の解散のこと)すれば泣くし、明和電機が賞を取れば喜ぶ。それだけのこと。ようは想像力。それらがアタシにとって、無駄だったり、損だったりすると考えて批判する人は、世界を楽しくするエッセンスへの想像力と共感力が足りないのだと思う。


今日の反省。

 三日分だと長い。



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2/14。 幸福論は必要か?追加。> ショートカット(時間のない人へ)



1. 幸福論は必要か?追加。

 昨日書いたのは、凄く分かりにくかったみたいで申し訳ありません。注釈。になるといいなぁ。(笑)
 アタシは、今まで不倫とか恋愛語りとかエロ語りとかが、叩かれる理由がわからなかったし、分からないから例に出してきたし、今も分からないでいます。コミュニティ性というものが、外にいる人達から一方的に叩かれることとか、確実に誰かの痛みがあって成り立つ行為の、その必要性や存在意義が分からないでいます。本当に、その痛みは必要なのか。そして何かのためになっているのか。自己満足だったり、屈折したストレス解消だったりじゃなく。
 誰かの痛みは見せしめとして効果的だったり、例としてわかりやすかったりするんでしょうけど。でも本当に必要なことなんだろうか。
 ついでにインターネットでのみ成立する、自分が絶対に安全だと確信した上の「批判精神」というものが、本当に必要なことなのか最近懐疑的だったりします。
 アタシは自分の立場を守るための攻撃は、批判精神とは言わない、と考えています。あくまで自分の立場の擁護に過ぎないんじゃないか、と。ついでに価値観を一つにすることに関しては興味がない。今のところ、価値観混在で、進んでいくしかないんじゃないか、と考えています。色んな叫びがあっていいと思う。必要とする人は、ちゃんと求める言葉をかぎつけて集まってくると思うし。
 でもどうして、その言葉を求めない人が、集まってそれを否定しようと頑張るんだろう? それが不思議で仕方なかった。
 とりあえず、分からないけれど分からないなりに想像する。
 自分には必要のない訴えがあり、それに集まる人達のやっていることを、無意味だと声高に宣言すること。それが意味があるとかないとかじゃなくて、そうしたくなる、そうさせる気持ちに興味がある、時代が見える気がする。
 人が集まるということは、確かになにか意味があることだと考えるから。人が集まっていることを否定するために人が集まること、その矛盾や混沌。その行為に駆り立てる「何か」。いろいろなアプローチがある。テレビに出る人。インターネットで匿名で発言を続ける人。自分の名前で発言を続ける人。いろんな形があるけれど、「人が集まれば何かができるんじゃないか」と考える点では根底は同じみたいだ。

 最近、この世の大体のことの「意味」は「意味を感じる人」にとってのみ、存在するもののような気がして仕方ない。「意味を感じない人」はどこにでも多かれ少なかれいて、その数で、マイノリティーだったり、マジョリティーだったりができる訳なんだけど。どうして、数で勝つだろうマジョリティーに限って、ヒステリックなんだろう? 
 で、最近、「普通」じゃないものを求める人達の数が増えることが(普通を自称するマジョリティーの人達にとって)怖いことなのかしら?という気がしてきた、訳です。というのが昨日の話です。




2. 差別について思うこと。

 差別うんぬんに関しては、自分より下を見て幸せになれる人、というのは確実にいて、そういう人は、自分が下に見られないように、哀れまれる対象にならないように、努力をし続けるだろうと思う。それが幸福であるための最低限必要な努力、義務である訳だから。そしてそれを当然のように第三者に要求する。いじめられる方にも原因がある、というのはそういう義務をこなしているからこそ、出てくる言葉だと思う。だから、差別する人はなくならない、と言えるかもしれない。


3. 幸福論の感想。

 14日の「幸福論」を見て思ったこと。
 幸福というのは、第三者は大体の場合「状況」をさし、当人は「状況」を24時間感じ続けたり認識しつづけたりすることはできないので、美味しいものを食べた、欲しいものを手に入れた瞬間的な「嬉しい」だったり、「楽しい」をさすことが多いんじゃないか、と思った。ここで個人差が出るのだと思う。甘いものが好きな人、辛いものが好きな人、お酒を飲むと楽しくなれる人、気持ち悪くなる人、といったような個人差。
 「幸福論」で取り上げられていた幸福は、そういう意味で「単発の幸せ」、大きなチーズステーションを探すために走るために必要な十分な量のチーズ、という感じがした。前を向き、走りつづけることが幸福、という感じがした。
 そういう意味では、とても幸福そうな人達だったと思う。状況はさておきにして。


 しかし、言論の自由だったり、本当のことだから言っていい、という言葉に「違和感を感じる」のはどうしてだろう? と考えていたら、宇和島水産高等学校の掲示板等に対する悪意ある投書について を読んで、ああ「悪意がある」か「ない」かが問題なのね、と気付いた。
 (宇和島水産高校の掲示板にされた悪意ある投書の一つ?が、帝京科学大学のサーバーからの書き込みだったことが判明し、大学長が謝罪した)
 言論の自由は、その言葉に「悪意」がある場合は尊重されるものじゃないわけだね。
 悪意がなくても、柳美里さん控訴審判決のように制限される場合もある訳だけど。
 しかし、やっぱり今の日本では人権は本当に安く扱われてると思う。
 権利を主張する前に、義務も果たさなくては駄目だしね。



4. まとめ。

 しかし「幸福や欲しいものの感じ方」に対しての、自由は尊重されないものなのかしらね。
 くり返しになっちゃうけど、どうしてそんなに「他人を不幸と決め付けて平気な人」がいるのかしら。それってそんなに気持ちいいことなのかしら?
 水産高校の掲示板でも、偽善者が集まってると嫌ってた人がいたけれど、じゃあ「偽善」と比べて、「悪」の方がマシなのかしらね。それとも自分は「悪人」だから、「偽善者」は駄目だと言う自分擁護? 「偽善者だ」と嫌う人が、その時「自分」をどこに置いているのか聞いてみたいものだわ。「偽善者」の反対になる言葉というのは「普通」ではない。「正しいことだ」といいながら、「悪意」は含まれてるみたいだしね。自分達のことを「善人」だと言いたい訳でもないみたいだし。本当に「偽善」を嫌う文化は、アタシにはよくわかんない。


今日の反省。

 明日は明和電機のビットマンのオールナイトのイベントに参加するので、更新やメールの返事はできません。



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