4.ここがおかしい名古屋・愛知の観光施策
 最近の名古屋においては、ラーメン屋が増えた。名古屋はラーメン屋に飢えていたのであるが、他地方の資本によって活気付いたのである。このことはそして、「名古屋人がラーメンを食べたがっている」ことを全国チェーンのラーメン店がいち早く察知した結果であり、名古屋の地元資本がうまくこの思潮を掴めなかった事の証左である。
 最近名古屋で元気なのは、ラーメン屋もそうだが、万博そのもの、栄のサンシャイン、あるいは色々な所に建つインテリジェンスビルである。名古屋の資本そのものの広告によって名古屋市民・愛知県民が動いているというよりも、名古屋が平均化された「日本」に取り込まれているような所は、少々考えた方がいい。万博など「一体コレのどこに名古屋らしさがあるのか?」というものの筆頭である。万博のように「日本のどこの人が見ても分かる」というものは、元来「その地を楽しむ為に来る」という精神とは相容れないはずである。
 最近また気になるのが、名古屋らしさをなくしていくことで「名古屋は良くなったね」と言われる(ついでながら今の残酷なグローバリゼーションは、「日本らしく」無くなったことを以って、「日本は良くなったね」と欧米に言われている)。どこの人が見ても分かることを以って、名古屋が良くなったね、と言われるなら、その人はまるで旅行とか観光といったものをわかっていない。名古屋の観光地はもともと玄人にしか受けないようなところがあった。それが名古屋の良さだったとは思われないらしい。名古屋人は地元に愛着がないので、平気で他地方の物と取り替えてしまうようだが、その「名古屋人らしさ」が心情のうちで留まるなら、問題ではない。問題はこういう内心に過ぎないものを、観光施策ないし政策という物理的なものにしてしまうことなのである。平気で他地方の風習や文化に置き換えることが政策化されたりすることは、地方を尊重しないやり方なのだ。名古屋人はそれを自ら進んで実行している気がする。とりわけ東京の文化を「ナウい」と思い、自文化をダサイとする傾向が強い。まるでウン百年前に、チェコであった話で、自分たちを解放するはずのフスを、チェコ人自身が喜々として火刑に付した様を思わせる。

 一方、愛知高原の道路が、あたかも万博の交通規制によって寸断されたように見えてしまった固定観念、そして、万博の交通が名古屋・豊田市⇔万博←×→奥三河温泉・稲武・茶臼山、となっていることで、愛知高原の観光客を減少させてしまったと言われる。愛知高原の観光が、万博との大した連携を行っていないことと、万博で疲れ切った客が奥三河等までは、もう行きたがらない、足を向けたがらないことが問題である。せともの祭りの観光客もまた、減少したとされる。名古屋−万博の線上にまがりなりにも、瀬戸市は有った訳だが、万博ついでには誰も寄ろうとは思わなかったのである。


 結語
 さて、僕は万博を観光・「環境博としての本旨との整合性」の2面で批判をしてきた。批判すべき点を、今まで書いた批判4稿から、改めて列挙してみる。
・いくつかの観光地は万博からの恩恵を受けていない。観光客は万博のついでに寄って行く?という気が起こらず、万博疲れから却ってそこに寄らない。
・万博ではなく、それらの観光地目当てで来ている人も、今年の交通規制で来客が減っているケースがある。
・万博に名古屋らしさが無い。
・愛知高原という地味を生かし切れていないので、万博に来た客は単に「万博に来ただけ」で、愛知や名古屋の観光をしたとは言えないところがある。
・(本文になかった批判点) 万博だけを目当てで来た人は、万博閉幕とともにもう名古屋に来ないかもしれない。かれらは「万博」目当てであって「名古屋」は要らないこともある。
・環境博としての趣旨が今ひとつ貫徹できていない。
・環境博と言うなら、名古屋とか愛知高原という「環境」を生かしきるべきであった。
・現在の戦争中の国家が、いけしゃあしゃあと出品しているのも変だ(ましてそれらの国が、平然と観光の誘致をしているのはおかしい)。
・財政金銭的な「社会的環境」にやさしい万博にはとても思えない。
 これらの批判をもとに、万博後を考えていかねばならないだろう。なお、人類や産業の発展をスローガンにしたこれまでの未来志向の万博と違い、環境問題は「人類の発展に、ともすれば枷をはめる」もののはずであり、それが万博に向くとは思えない。その矛盾が、万博後の名古屋のあり方を困惑させることを危惧してもいいであろう。なお、観光施策が批判されるのはいいが、財政問題などと違い、名古屋人・愛知人の内面・性格そのものまでも批判される必要はないのである。


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