一方、愛知高原の道路が、あたかも万博の交通規制によって寸断されたように見えてしまった固定観念、そして、万博の交通が名古屋・豊田市⇔万博←×→奥三河温泉・稲武・茶臼山、となっていることで、愛知高原の観光客を減少させてしまったと言われる。愛知高原の観光が、万博との大した連携を行っていないことと、万博で疲れ切った客が奥三河等までは、もう行きたがらない、足を向けたがらないことが問題である。せともの祭りの観光客もまた、減少したとされる。名古屋−万博の線上にまがりなりにも、瀬戸市は有った訳だが、万博ついでには誰も寄ろうとは思わなかったのである。
結語
さて、僕は万博を観光・「環境博としての本旨との整合性」の2面で批判をしてきた。批判すべき点を、今まで書いた批判4稿から、改めて列挙してみる。
・いくつかの観光地は万博からの恩恵を受けていない。観光客は万博のついでに寄って行く?という気が起こらず、万博疲れから却ってそこに寄らない。
・万博ではなく、それらの観光地目当てで来ている人も、今年の交通規制で来客が減っているケースがある。
・万博に名古屋らしさが無い。
・愛知高原という地味を生かし切れていないので、万博に来た客は単に「万博に来ただけ」で、愛知や名古屋の観光をしたとは言えないところがある。
・(本文になかった批判点) 万博だけを目当てで来た人は、万博閉幕とともにもう名古屋に来ないかもしれない。かれらは「万博」目当てであって「名古屋」は要らないこともある。
・環境博としての趣旨が今ひとつ貫徹できていない。
・環境博と言うなら、名古屋とか愛知高原という「環境」を生かしきるべきであった。
・現在の戦争中の国家が、いけしゃあしゃあと出品しているのも変だ(ましてそれらの国が、平然と観光の誘致をしているのはおかしい)。
・財政金銭的な「社会的環境」にやさしい万博にはとても思えない。
これらの批判をもとに、万博後を考えていかねばならないだろう。なお、人類や産業の発展をスローガンにしたこれまでの未来志向の万博と違い、環境問題は「人類の発展に、ともすれば枷をはめる」もののはずであり、それが万博に向くとは思えない。その矛盾が、万博後の名古屋のあり方を困惑させることを危惧してもいいであろう。なお、観光施策が批判されるのはいいが、財政問題などと違い、名古屋人・愛知人の内面・性格そのものまでも批判される必要はないのである。